東平全景(大正前期)
大正前期の東平全景である。東平娯楽場が建築されているので、少なくとも大正元年以降である。
主な建造物の建築年を挙げてみると
明治38年 東平選鉱場 完成
明治39年 私立住友東平尋常小学校 開校
明治41年 住友病院東平分院 新築
明治41年 東平郵便局 開設
明治45年 東平娯楽場 開設
大正5年 採鉱本部を東平に移管
(写真は東平娯楽場の威容)
このように、第三通洞開削とともに、東平時代が一気に花開いていったことがわかる。
絵葉書、最下部の集落が「辷坂社宅」であるが、この下流に明治27年、「ペルトン水車」が設置された。
この水車は、第三通洞開削のための削岩機動力用で、東平開発はここから始まったと言っても良い。
東平を少し下ると小足谷川を渡る立派な橋があるが、今もこのあたりを「ペルトン」と呼んでいる。
大正5年に採鉱本部が移ってからは、もっとも最盛期を迎えることとなる。いわゆる「東平時代」である。
鉱石はすべて第三通洞から搬出され、選鉱、貯鉱を経て、索道で黒石ステーションに下ろされた。
人口3800人を擁する「ヤマの町」は、活気に満ち、だれもが永遠の繁栄を信じて疑わなかった。
しかし第四通洞が完成し、採鉱が下部鉱床に移るにつれ、中心は次第に端出場に集約され、
昭和5年には、採鉱本部も端出場に移管。東平選鉱場も廃止され、賑わいにも翳りを生じるようになる。
戦後は、上部坑の低品位鉱をふたたび採掘する「二代掘り」の基地として、また別子側への連絡路として
なお活況を呈していたが、上部坑の終掘とともに、昭和43年、遂にすべての部署が廃止、撤収となった。
残る木造の建物は焼却処分とされ、東平接待館の風雅な「お屋敷」も惜しげもなく棄却された。
すべてを焼き尽くす煙の中で、東平をふるさとと仰ぐ人々は、その作業を呆然と見つめていたという。
東平に育ちし人はかくまでに 荒れはてし里に涙するらむ
東平に生れ育ちし人らみな いづくの空にここを憶へる
正良