東平全景(大正前期) 

LIN_128

tonaru-e1

LIN_128

 

tonaru-e1a

 

大正前期の東平全景である。東平娯楽場が建築されているので、少なくとも大正元年以降である。

主な建造物の建築年を挙げてみると

 

明治38年 東平選鉱場 完成

明治39年 私立住友東平尋常小学校 開校

明治41年 住友病院東平分院 新築

明治41年 東平郵便局 開設

明治45年 東平娯楽場 開設

大正5年 採鉱本部を東平に移管

             tonaru-e1b (写真は東平娯楽場の威容)

 

このように、第三通洞開削とともに、東平時代が一気に花開いていったことがわかる。

絵葉書、最下部の集落が「辷坂社宅」であるが、この下流に明治27年、「ペルトン水車」が設置された。

この水車は、第三通洞開削のための削岩機動力用で、東平開発はここから始まったと言っても良い。

東平を少し下ると小足谷川を渡る立派な橋があるが、今もこのあたりを「ペルトン」と呼んでいる。

大正5年に採鉱本部が移ってからは、もっとも最盛期を迎えることとなる。いわゆる「東平時代」である。

鉱石はすべて第三通洞から搬出され、選鉱、貯鉱を経て、索道で黒石ステーションに下ろされた。

人口3800人を擁する「ヤマの町」は、活気に満ち、だれもが永遠の繁栄を信じて疑わなかった。

しかし第四通洞が完成し、採鉱が下部鉱床に移るにつれ、中心は次第に端出場に集約され、

昭和5年には、採鉱本部も端出場に移管。東平選鉱場も廃止され、賑わいにも翳りを生じるようになる。

戦後は、上部坑の低品位鉱をふたたび採掘する「二代掘り」の基地として、また別子側への連絡路として

なお活況を呈していたが、上部坑の終掘とともに、昭和43年、遂にすべての部署が廃止、撤収となった。

残る木造の建物は焼却処分とされ、東平接待館の風雅な「お屋敷」も惜しげもなく棄却された。

すべてを焼き尽くす煙の中で、東平をふるさとと仰ぐ人々は、その作業を呆然と見つめていたという。

 

東平に育ちし人はかくまでに 荒れはてし里に涙するらむ    

東平に生れ育ちし人らみな いづくの空にここを憶へる     

                                       正良                                

 

B03J12