東平全景(明治末期)
これは、NO.1とNO.2の中間に位置する絵葉書である。
下の英文に “Higashitaira” とあるのは、ほんのご愛敬だろうか?
明治41年に新築なった住友別子病院東平病院はあるが、その下の東平娯楽場は未だなく
したがって、明治41年から明治45年の間の様子を伝えるものと推測できる。
NO.2で、索道基地下部にみられた社宅は、すべて更地となってサッパリしているが
NO.3で、ふたたび茅葺きの社宅が建てられているのは面白い。
急激な人口急騰に対応するため、少しでも空いた空間を利用しようという苦肉の策であろう。
絵葉書右下、辷坂社宅の右手にみえる瀟洒な建物が、明治41年開設の東平郵便局である。
結構下に位置するため、東平や呉木から郵便を出しに行くのには、なかなか大変だったと思うが
当時は、端出場へと通じる幹線「東平街道」の基点にあたり各部署への集配が便利だったのだろう。
目を上に向けると、東平地区の右手に聳える小高い山が、「一の森」である。
ここに旧別子から大山積神社が遷座するのが大正4年であるから、この時点ではまだ何も存在しない。
そんな明治末期の急速に変化する東平の状況が、この一枚の絵葉書から偲ばれる。
平成14年10月、北海道浅井学園大学教授で、煉瓦建造物の権威である水野信太郎先生をお招きして
山村研究会現地研修会が催された。小生も参加させていただいたが、貯鉱場の石組を一目みるなり
「オレが明治だ〜!という絶対的な威厳に満ち溢れている!」と先生が叫ばれたのが印象に残っている。
新居浜観光協会HPより転載