東平沈殿槽の景(明治後期) 

 

別子における沈殿槽は、明治6年、明治政府から派遣された傭外国人のコワニエの進言により計画された。

沈殿槽は、湿式収銅法の一種で、坑内から排出される排水中に硫酸銅として溶解している銅成分を

流水に鉄クズなどを投じて、そのイオン化傾向の差を利用して還元沈殿させる方法である。

鉱毒水を出来るだけ希釈させる利点の上に、多少の収銅もできるという一石二鳥の効果を有している。

明治32年、旧別子、小足谷に本格的な沈殿槽が建設されたのを皮切りに、明治38年、東平にも設置された。

この絵葉書は、その東平沈殿槽(第2沈殿槽とも呼ばれる。第3沈殿槽は山根)を下から見上げたところで

正面には第三地域を統括する採鉱課の二階建て事務所、左手には煉瓦造りの第三変電所が見えている。

しかし、大正4年、第四通洞が完成すると、坑内水は出来るだけ下部に集約した方が能率的であることから

山麓の山根沈殿槽を大幅に拡張するとともに、昭和3年10月を以って、東平沈殿槽はすべて廃止された。

今、第三付近を歩いても、この辺りの斜面は大幅に崩れ足谷川に落ち込んでいて昔日の面影は何もない。

時の流れとはいえ、ここに写る人も物も、今はこの世に存在しないと思うと、侘びしさが込み上げてくるが、

明治初年、鉱毒水の環境汚染に対して真摯な気持ちで向き合った住友の姿勢は大したものだと改めて感服する。