第三通洞の景(明治後期)
後ろの斜面が禿げ山で明るく、第三通洞もなぜか大きく見える。今は、鬱蒼として陰湿な場所であるが・・
通洞は、東延斜坑底部、いわゆる「ミスマの大富鉱体」に至る水平坑道として明治27年に着工された。
海抜747m、富鉱体までの距離1,820m、圧搾式削岩機を使用する本格的な近代的隧道工事であった。
これも第一通洞でのダイナマイト使用、未完の第二通洞での削岩機の試用経験があってこそ成し遂げられる
20年に及ぶ不屈の努力の賜物ということができよう。「ローマは一日にして成らず」の例え通りである。
別子側に向けても、明治41年に斜坑底から開削を開始、明治44年に開通し「日浦通洞」と名付けられた。
これにより、東平〜日浦間4,000mが一本の通洞で結ばれ、閉山まで、鉱業、生活両面で利用された。
生活用電車は、安全を考え「オリ」のような構造で、通称「カゴ電車」として親しまれた。料金は無料。
真っ暗な通洞内を30分かけて駆け抜けるが、それを経験した人は、いまも楽しい思い出として笑顔で語る。
登山家のF氏などは、銅山峰を越えて別子に帰るのが億劫になり、第三から通洞に忍び込んだまでは良かったが
途中で電車とかち合って死ぬ思いをしたという。通洞幅は3.3mしかなく以外に逃げ場所がなかったそうだ。
結局、運転手の発見が間一髪早く電車が手前で急停止。坑内不法侵入の廉で、こっぴどく叱られはしたが、
ちゃっかりとその電車に乗せて貰って、無事、日浦まで送り届けてもらったと、やはり笑顔で話してくれた。
別子山村民と新居浜の絆は、第三通洞の開通によってさらに深められたと感じるのは、小生だけであろうか?
しかし、筏津坑閉山ともに「カゴ電車」も廃止。村民のために残してほしいという願いも、遂には届かなかった。
数年前に再放送されたNHK新日本紀行「閉山の村」に収められるカゴ電車の面影にも多くの人が涙したという。
日和佐初太郎 写真集「別子あのころ 山浜島」より転載。