東端索道の景

 

東平−黒石間に、明治38年敷設された「東端索道」の景である。正面の山が銅山峰にあたる。

索道の分類では「自走式複式単線自動循環方式」という。自走とは、電動機を使わず自重で下る方式である。

複式単線自動循環式は、風に強くするために単線自動循環式の支えい索を2本にしたものである。(下図)

 単式       複式

絵葉書でも、曳索が2本あるのが認められる。循環式とは、スキーのリフトのように無限軌道を描く方式で、

これに対して、石鎚や雲辺寺ロープウェイなど、上り下りが分かれているのを交走式というが、鉱山では少ない。

自動とは索道基地では曳索把持がゆるんで速度が落ちるシステムのことで、曳索から動かないのを固定式という。

索道は、端からみると単純そうだが、なかなか奥が深く以外に複雑なメカを有する設備で、手入れも大変である。

別子の誇るこの索道は、ドイツ「ブライヘルト社」製の輸入品で、第三通洞完成に伴い最新鋭機種を導入した。

その後、足尾銅山の玉村勇助が開発した国産機が普及し、別子でも以後の索道はほとんどが玉村式となったが、

東端索道は、昭和10年に終点が黒石から端出場に変更されたものの、東平撤退までこの輸入品が使用された。

自走式ゆえにほとんど機械音もなくユラユラと上空を渡ってゆく搬器の姿は、別子の名物でもあったという。

その優雅な姿とはうらはらに、結構、トラブルも多かった。把持装置が故障し搬器が暴走して互いに衝突したり、

搬器がはずれて落ちることもあったという。したがって、搬器に人間を乗せることは当然、厳禁であった。

索道下の道路には、かならず落石防止の屋根が設けられていたが、搬器が落ちてきたらひとたまりもなかったろう。

搬器だけでも、560kgの重さがあった。児童の通学路もあったというのだから、今なら大問題となるに違いない。

端出場で鉱石を下ろしたあとは、生命線として東平に生活用品などを荷揚げするのにも大いに役立っていた。

毎年、七夕の頃になると、搬器から笹が覗いたりする風情などは、なかなか優雅であったと伝えられる。

 

                           (端出場近くの東端索道。後ろは在りし日の鹿森社宅)