山根グランド観覧席
昔、中国の百丈懐海禅師は、弟子達と共に「作務」と呼ばれる奉仕的労働を行っていた。
作務は、結構な肉体労働であり、師が力の限りそれを行うので、弟子達は師の体を気遣って
師の作務道具を隠してしまった。師はいつものように作務に来られたが道具がない。
しばらく辺りを捜したが見当たらないので、仕方なく座禅堂を入ってしまわれた。
弟子達は、師が作務を諦められたと思って喜んだのだが、一向に座禅堂から出てくる様子がない。
食事(薬石の時)になっても来られないので、心配して様子を見に行くと座禅を組んだままである。
訳を問うと、「我は一日作さざれば一日食わずである。」と答えたという。これが作務の本義である。
時の労働課長、鷲尾勘解治は、「自彊舎」の弟子達を前に、この逸話に続けて次のように語った。
「私はあすの日曜日に作務をしようと思っている。塾生達は日曜のことであるから、それぞれの目論見が
あるだろう。若し用件で外出する人は外出してください。その外の目論見のある人は遠慮なくそれを
してください。外出もしない人でも、静養をしたい人又は手紙を書きたい人或は書物を読みたい人は
明日は皆様の休日であるから、少しも遠慮することはないから、それをして下さい。
若しも何もしない人は私と一緒に作務をしましょう。作務で何をするかというと、山神社が出来たから
神社と自彊舎との間の松林を切り開き地均しして運動場を作ろうと思う。それには労働課に消防夫が来て
一緒に作業をしてくれることになっている。決して無理をせぬように。・・・」
以上が「鷲尾勘解治自伝」(昭和56年)に記されている、鷲尾自身による運動場建設の縁起譚である。
作業はその後も有志らによって続けられ、鷲尾の別子鉱業所支配人就任以後は塾生を越えての作業となり
昭和3年、大山積神社の遷座と相前後して完成した。神社の一角には奉納相撲のための土俵も作られた。
戦前は、別子開坑記念に催される「山神祭典奉納相撲大会」や、明治節に会社挙げての「親友会運動会」など
市民の参加も一部認められていたため、6万人を収容するという観覧席を満席にしての応援の勇ましいことや、
川原にまで見せ物小屋や出店が立ち並んで商売を競い合うなど、東予における一大偉観として名を馳せていた。
当の鷲尾自身は、そうした賑わいをほとんど見ることなく本社の常務理事として新居浜を離れてしまったが
作務の精神は、ただの企業の奉仕活動に止まらず、市民の意識改革をも昂揚させ、別子亡き後の新居浜を
共にあるべき方向に導くのが真の目的であると後年語っている。政治家でない彼が、それも宗教的な教えを
市制や市民精神にまで介入させるなどおよそ観念論的で、これが本心であるとすれば、彼は常人ではない。
しかし、それを受け入れて共に今日の工都の礎を築きあげたところに、新居浜という町の特異さが感じられる。
昭和初年の大山積神社奉納相撲大会(5月) 昭和4年頃の住友親友会運動会(11月)
戦後はそうした熱気も冷め、企業以外の使用も著しく制限され、各種行事も合理化や閉山の不安で中止されたため
一時、グランドも荒廃して観覧席にも雑草が生い茂り、見る影もなくなった時期があったという。そのうえ
土俵やその周辺の石積みは、後に「別子銅山記念館」建設に当たってほとんど撤去されてしまったのは残念だが
グランドの巨大な石積みは、素人が作り上げたとは思われないしっかりしたもので、今なお当時の面影を残しており、
山神社の風の中に佇むと、運動会の歓声やどよめきが、昔日の栄光のままに聞こえて来るような気がしてならない。
昭和49年頃の川口新田住宅付近の航空写真。グランドの大きさがよくわかる。
整然と並ぶ区画が印象的。写真の左上には、新居浜観光センターも認められる。