山根収銅所
言うまでもないことだが、坑内から排出される坑水には、微量の銅や硫酸成分が含まれている。
これを、そのまま流してしまうと、いわゆる鉱毒水として農産物や人体に多大の影響を及ぼす。
小規模な銅山ならいざ知らず、別子のように巨大となると、その量も無視することはできない。
現に、江戸時代にも銅山川から吉野川流域に被害が出て、阿波藩とトラブルとなったこともある。
明治になって、鉱毒水に関して無頓着であった足尾銅山が、国を揺るがす鉱毒事件を起こしたことは
周知の事実だが、別子とて、ひとつ間違えれば同じ公害訴訟に巻き込まれる可能性はあった訳である。
このような水溶液から銅を採る方法は、鉱石からの積極的な収銅法にも応用され、湿式収銅として確立していた。
別子では明治6年、工部省のお雇外人コワニエが湿式収銅法の必要性を説き、2年後にゴットフレーの指導の下に
本邦初の湿式沈殿銅を得た。住友家には第一号の沈殿銅見本が家長友親の銘文とともに残されている。(下図)
(住友別子鉱山史 別巻 より転載)
この原理によると、坑水から鉱毒成分を抜き取って公害防止にも有効であることから、別子でもさっそく実践に移した。
明治13年、旧別子高橋付近に沈殿槽を設け、明治32年には小足谷疎水付近や坑内にも設置して回収に努めた。
坑道が下部になるに従い、第三通洞開通の明治38年には東平(第一)、山根(第二)に集約、旧別子は廃止となった。
「日本工業史」によると、明治35年頃の坑水には、銅0.00054%、硫酸0.00105%含有と記載されている。
その後、第四通洞開通とともに、山根の設備を拡張して一本化することになり、昭和3年には東平沈殿槽も廃止された。
以来、八十有余年、山根収銅所は閉山後も稼働し続け、昼夜の分かちなく、現在も坑内排水の浄化をおこなっている。
鉄くずに銅を析出させるとともに、強い酸性成分は石灰を混合して中和させ、pH7以上にしてから海に流している。
稼行時はpH3〜4の強酸性であったが、現在はpH7程度、環境には問題ないというが地道に作業は続けられている。
以前、ここを見学したとき、職員の方がしきりに足尾銅山と比較して、住友の沈殿槽を褒め称えていたのを思い出す。
確かにコワニエの助言を真摯に受け止め、早期に坑内排水処理を充実させたのは万人の賞賛に値するだろう。
しかし足尾にまったく沈殿槽がなかったかと言えばそうではない。足尾もコワニエに従って坑水処理には努めていた。
明暗を分けたものは足尾の地理的要因ではないか。海まではあまりに遠く、渡良瀬川下流には大穀倉地帯が拡がっている。
結局、根本的に鉱毒水を無毒化するには、一村が丸ごと沈んでしまうほどの沈殿槽が必要であったということであろう。
これに比べて別子は、海まで至近の上、国領川も天井川のため畑作地域が多かった。これも幸いしたのではないだろうか?
自称?別子オタクである小生が、足尾の肩を持つというのは以外かも知れないが、田中正造という希代の傑物がいたために
公害問題の槍玉にあがっていつも悪者扱いされる、古河市兵衛にも一抹の同情の余地がない訳ではないと思うからだ。
悪鬼とも揶揄される囂々たる世間の非難の中で、さすがの市兵衛もストレス潰瘍に倒れたことはあまり知られていない。
それから一世紀、鉱山が消えた今、もう一度、恩讐を越えた冷静な目で足尾鉱毒事件を見つめ直すのも必要かもしれない。