煙突山と新田住宅
国領川から南側を望んだところである。右端に煙突山、左端には川口新田クラブの白い建物が写っている。
ややわかりにくいが、低い堤防の向こうには平屋の長屋が幾重にも並んでいるのも認識できる。
松の木の右側には、山根グラウンドの石積みの観覧席が白く見え、その上には大山祇神社が鎮座している。
一写入魂!新田地域をすべて入れようと意気込んで撮った一枚だろうが、かえって纏まり感に欠ける恨みが残る。
煙突は明治21年に竣工した湿式精錬所のもので、明治28年、煙害と硫酸不振で廃止されるまで使用された。
以後100年間、撤去されることもなく、別子銅山の象徴のひとつとして新居浜市街を見下ろし続けている。
近年、駅前再開発事業の一環として、プロムナードに描かれる予定と言うが、さてその宣伝効果は如何であろうか?
新田クラブや住宅については別に書くとして、ここでは撮影地付近にあった懐かしい施設について述べてみたい。
この国領川の左岸、新田橋の北側にあたって、昭和39年「新居浜観光センター」が鳴り物入りで開業した。
経営母体は近鉄の外郭団体「(株)新居浜近鉄観光」で、地元の人は「近鉄センター」とも呼んで親しんでいた。
本館は、鉄筋コンクリート2階建てで、270畳の大広間をはじめ、娯楽室、食堂、遊園地なども完備していた。
特に自慢は立川山に湧出する鉱泉を引き込んだ、大浴場、野天風呂、家族風呂などの多彩な温泉設備で
大広間では、連日、芝居が上演され、一日中遊びくつろぐことのできる総合ヘルスセンターであった。
新田クラブは、原則として住友社員しか利用できなかったので、一般市民にとっても待望の娯楽施設であった。
小生が小学生の頃は、町内会や子供会の親睦行事として、香川県から貸切りバスでよく訪れたものである。
芝居は子供にとっては退屈で、親に小遣いをせびりながら、スマートボールや魚雷船ゲームに興じたことや
一回泳ぐと唇が紫色になるくらい水が冷たかったプールで、時間を忘れて遊んだことが懐かしく思い出される。
もともと高速道路のインターチェンジが付近に出来る予定で、それを当て込んでこの地が選ばれたらしいが
当時、新居浜は名高い革新市制の牙城であり、市長がそれに反対したために道路計画が大幅に遅れたという。
結局、それが尾を引き撤退したと言うが、しかし、それだけが原因かと言えば、必ずしもそうとは言えないだろう。
昭和50年代に入り、個人の趣味や嗜好が多様化して、画一的な福利厚生施設や催し物は衰退の一途を辿る。
香川県でも、五郷渓温泉や坂出観光センターなどが相次いで閉鎖されていったことも、それを物語っている。
ヘルスセンターという大衆向けの大型施設が、時代にそぐわなくなっていったことこそが一番の原因であろう。
まあ、昼から飲んだくれてちょっかいを出すオヤジもいたが、老いも若きもみんな一緒に楽しみあえた憩いの殿堂!
今、それを偲ぶ影は何もなく、ほのぼのとしたいい時代だったという追憶がこころの片隅に残っているだけである。
(伊予路の歴史と伝説(合田正良著)より転載)