新田住宅の景
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川口新田住宅の南北に走る通りを、南側から撮影したもので、平屋の住宅が幾重にも並んでいる。
通りに面して並ぶ小さな小屋は、共同便所と思われる。風呂はなく、新田クラブ共同浴場を利用した。
昭和25年、ここでダイナマイト爆殺事件、母子殺人事件がおこり、未曾有の大騒動となった。
犯人は同一犯で、おまけに刑務所から脱獄して再逮捕されるまで、長期間にわたり社会不安を煽った。
これを題材にした小説が、西村 望氏の「薄化粧」で、緒形拳主演で映画化され、さらに有名となった。
その映画の各所にも実際の社宅や共同便所がロケに使われているので、記憶されている方も多いだろう。
小説の中にも、その様子が詳細に記載されているので、ここに一部転載させていただくことにする。
「・・会社から貸与された社宅は、角野町の川遠新開(かわおちしんがい)にあった。
丙区三十七号というのが社宅番号だったが、社宅といってもスレート瓦葺きの十軒長屋で、
低い軒庇をくぐるようにして玄関にはいると、はいったところが炊事場と踏みこみを兼ねていて、
踏みこみはすぐ三畳の部屋につづいているといった、ごく狭いものであった。
三畳の奥は四畳半で、部屋数はこの二間しかなかった。・・
四畳半には雨戸がはいっていて、雨戸の外は濡れ縁になっていた。
家には便所もふろ場も、そして炊事用の水道もついていなかった。
便所は長屋の両端に、長屋から少し離れて共同のものが設けられていたし、
ふろは社宅街のはずれに、街の銭湯よりはるかに立派なものが用意されていた。・・
流し場も一棟共同のものが、長屋の中ほどに作られていて、コンクリートの流し台には、
年中水を出しっぱなしの水道のパイプが立ちあがっていた。・・
そういう長屋が、細い道を挟んで十棟並んでいた。あわせて百戸で、百戸を一つの区画とした
群れが六つあった。鉱業所はこれに十干の甲から己までの字をあてて、六区分していた。
だから坂根がはいった社宅では、丙区では三棟目の、端から七番目の家だったということになる。
家賃はたしか一円五十銭ぐらいだったと憶えている。・・」
さすが冷徹な現場主義、実証主義に徹する西村 望だけあって、当時の様子を非常に的確に詳細に捉えている。
「薄化粧」の初版本(立風書房)の本人によるあとがきにも、現場となった鬼気迫る様子が描かれている。
今は、すべて取り払われて更地となり、山根運動公園に生まれ変わってはいるが、地元の人はよく知っている。
しかし、それを記載したり、これ以上説明することも些か憚られるので、これくらいで止めておくが
子供を抱いた状態で、半ばミイラ化して社宅の地下から発見された母子の冥福を祈らずにはいられない。
多くの若者がテニスや野球を楽しみ、煌々とした電灯が不夜城の如く輝いている平和な公園とはうらはらに
墓標や慰霊塔ひとつないのも哀れに思われ、ここを過ぎるときは、せめて念仏を唱えるようにしている。
深刻な話題になってしまったが、もちろん、地元では新田住宅での楽しい思い出をお持ちの方の方が圧倒的に多い。
親類が社宅にいたので遊びに行った、友達が住んでいたので遊びに行った、習字の先生がいたので習いに行った、
などなど、閉山まで、通りに子供達の笑い声や、井戸端でのご婦人方の嬌声が絶えることもない一大生活空間で
少々の事件などはそのまま包み込んでしまう彼らの屈託のないエネルギーが、巨大な別子銅山を支えていたのである。

(近藤広仲翁「別子銅山風土記」より転載)