川口新田倶楽部
川口新田住宅南部を東西に横切る大通りである。奥に白い洋風建築の新田倶楽部が見えている。
写真の向かって右側が「自彊舎」、その自彊舎と新田倶楽部の間にも、5区と呼ばれる住宅群があった。
自彊舎の手前は、販売店(別子生協支部)となっており、およそ日用品なら何でも揃っていた。
この項では、大浴場として住人に親しみ愛されてきた、新田倶楽部について簡単に述べてみたい。
残念ながら、倶楽部そのものを写した絵葉書は確認できていない。下写真も写真集からの抜粋である。
川口新田倶楽部は、従業員の福利厚生や親睦を目的として、昭和5年に完成した。
発案者は、当時の別子鉱業所支配人、鷲尾勘解治である。その趣旨について自伝でこう語っている。
「事業の発展を望むには、従業員の住宅を快適にする必要があります。住宅環境を快適にすることは、
ただに衛生保健の上からのみならず、住む人々の心を清快ならしむるからであります。
そこで私は労働者のためには、角野の川口新田に新田住宅を新設し、消防施設、街路樹、倶楽部、浴場
はもとより、自彊舎、大山祇神社、相撲場、大運動場等を設けて、労働者の向上を計ることにつとめ・・」
その最大の特徴は、倶楽部としての機能と大浴場を合体化し、長屋群とはミスマッチな洋風建築としたことで
清潔感を内外にアピールするとともに、鷲尾が重視した禅における沐浴の思想をも無言で知らしめる形となった。
白くペンキ塗りされた色合いとも相まって、当時は「まるでお城のようだ。」ともてはやされたそうである。
開業当時の営業内容は、昭和8年発行の「別子銅山 今澤卯之輔著」によると
「倶楽部 川口新田ニ新田倶楽部ヲ開設シ其ノ内ニ浴場 理髪店 図書室 娯楽室 喫茶室 及簡易売店アリ
一般居住者ノ慰安ト利便ニ供ス 其ノ他四阪島 東平ニ職員及労働者ノ倶楽部ヲ設ク。」
とあって、浴場以外にも、当時としては画期的な多彩な総合福利施設であったことがわかる。
戦後も閉山まで浴場としての機能は保ち続けたが、他の倶楽部内容が存続していたかどうかは定かではない。
ただ、昭和40年代の新田倶楽部について、元住人の方からお話を聞くことができたので、以下にその内容を記す。
― 入浴値段はいくらだったか?
勿論、住人は家族を含めて無料である。外部の人も入りに来ていたが、お金を取っていた記憶はない。
え? 本には有料と書かれてあるのですか。私はお金を払って入浴している人は見たことがありません。
だいたい、毎日何百人と入浴に来るので、いちいちチェックなどしていなかった。
親戚や知り合いの人が来た場合も、新田浴場に連れだって行くのが、もてなしというか、馳走のひとつでした。
― お風呂の営業は毎日だったか?
ほぼ毎日です。ただし夜は8時までだったので、それ以降は山根の銭湯などを利用していました。
― 番台はあったのか?
一応、番台に人は居たように記憶する。まあ、風呂屋なので当然でしょう(笑)
― 売店などはあったか?
私の記憶する範囲では、売店などはなかった。喫茶室も、そんな気の利いたモノもなかった。
娯楽室や図書室、理髪室もあまり聞いたことがない。とにかく風呂以外にはなにもなかった。
― 男風呂と女風呂の配置はどうだったか?
東側が男湯、西側が女湯でした。脱衣場のロッカーも扉もなく、カギ付きではなかった。
― 浴室の様子はどうだったか?
浴槽はコンクリート製で楕円形をしていた。コックがあって自由にお湯をつぎ足すことができた。
浴槽は結構深かったので、小さな子供は注意が必要であったが、事故などは聞いたこともない。
洗い場にも水道はあったが、水だけでお湯はでなかった。シャワー設備も当然なかった。
洗面器や石鹸、シャンプー類も自前のを持っていきました。勿論、洗濯などはできなかったですね。
上がり湯なんかも記憶にないなあ・・とにかく浴槽は一つだけだったです。
天井?・・天井を見ながら風呂にゆっくり入った記憶もないので、よく覚えてはいないが
ドーム状の湯気抜きがあったようだ。壁はすべて板張りで、優雅な富士山も描かれてはなかった。
― ほかに印象に残るものがあれば教えてください。
あの頃は私も若かったので、お風呂あがりの娘さん達は皆色っぽく見えて、行くのが楽しみでした。
若い夫婦が待ち合わせて出ていくのもいい風情でした。まさに「神田川」の世界だったですネ(笑)。
上写真は、昭和40年頃改装された女子風呂内の貴重な写真。
2つの浴槽となり、上がり湯の温冷水給湯装置が設置された。(社内報「べっし」より)
この話によると、浴場以外の機能は、昭和40年頃にはすでになかったようである。
また、浴場内部について記した文献も皆無に等しいので、住人の回顧談は貴重な資料となっているが
如何せん、記憶違いや誤りなどあるかもしれないので、遠慮なくご指摘いただきたいとのことであった。
建物は、閉山後もしばらく廃墟の中にその威容を保っていたが、今は取り壊されて市営の温水プールとなっていて
東側から玄関に通じる石垣のなだらかなスロープのみが、当時を偲ぶわずかな遺構として残っているに過ぎない。
(現在の山根温水プール 向こうは山根総合体育館)