新田自彊舎

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「自彊舎」とは、昭和初期に別子支配人を務めた鷲尾勘解治の私塾である。

塾名は、易経の「天行は乾なり。君子は自ら彊めて息まず。」という語から採ったもので

名付け親は、時の住友総理事で住友中興の祖とも称される 鈴木馬左也である。

要するに、仏教や儒教の教えを通じて、坑夫の自己啓発を促し互いに精進工夫をする道場であって

決して、一方的な考えの押しつけや、作業を押しつけるモノであってはならないと再三戒めている。

しかし、結局、鷲尾の理想郷は完成することができたのであろうか?

その思想的な源泉や経緯を極く簡単に述べて、自彊舎の陰陽部分や功罪について考えてみたいと思う。

 

1.  鷲尾の生い立ち・・神官を父に持ち、幼少より宗教に関心を持つ。見性寺で禅について学ぶ。

           京都帝国大学法学部卒業。在学中、芳春院の菅広州老師の薫陶を受ける。

2.  住友別子鉱業所に就職・・就職してすぐに牧相信の飯場改革に対する暴動が起きる。暴動の

           原因を知るには、坑夫を知らねばならぬと自覚する。

3.  生野鉱山に坑夫修行する・・菅広州老師の勧めもあって、生野鉱山に一坑夫として入坑。坑夫

           の置かれている事情や苦しみ、不正の源をつぶさに体感した。

           上写真は、坑夫姿の鷲尾。「法学士の坑夫さん」として評判であった。

4.  自彊舎を創設・・大正元年、旧別子、住友病院跡地に自彊舎創設。坑夫に教育を施すことは

           労働問題の種となる、という批判もあったが、鈴木の庇護の下、順調に

           塾生を増加させる。大正5年に、旧別子から東平呉木に移転。

           さらに大正15年には、川口新田住宅内に移転した。東平自彊舎はその後も

           弟子達の自主運営による支塾として存続したが、昭和6年に、廃止統合された。

5.  労働課課長となる・・大正10年、労働課が発足し課長となる。おりしも13年に別子大争議勃発。

           鷲尾は賃金交渉については一定の理解を示しながらも、一部の破壊行為につい

           ては断じて妥協せず、解雇通知という強行手段に出た。激高した坑夫たちは

           武装して、「ワッショ、殺せ。(鷲尾、殺せとも聞こえる)」と家に押し寄せたが

           動ずることもなく静かに「臨済禄」を読んでいたという。その後、組合の分断

           と鎮静化に自彊舎の弟子達を導入したことについては今日でも賛否両論がある。

           鷲尾は、坑夫の良き理解者であるとともに、坑夫の怖さをも一番良く知る上司

           でもあった訳で、その意味では、労働者に取って過酷な指導者とも言えるだろう。

           後年、鷲尾に新居浜名誉市民を贈ろうとした際、「鷲尾は労働組合を潰した

           張本人だ。」との一部意見があることを聞いて、頑なに受贈を辞退したという。

6.  別子鉱業所支配人となる・・昭和2年、別子の最高責任者に就任すると同時に、別子銅山の

           「末期の経営」発言で一大物議を醸す。それと共に新居浜との共存共栄を図る

           ために住友5社の独立や港湾整備、道路建設などを次々に発表する。また、

           ペテルゼン法を導入して煙害の解決を推進したのも鷲尾の功績である。同時に

           長年、自彊舎で暖めてきた「作務」を実践に移した。「作務」とは禅に於ける

           報恩のための日常労働で、鷲尾は休日の希望者を募って、労働奉仕に従事させた。

             昭和通りや病院前道路、山根グラウンドも社員の勤労奉仕でできたものである。

           一方では、日曜日に要らない労働を強要しているとか、この不景気に会社経営

           に直接関係ない新居浜の整備に巨額の費用を費やしているなどの批判も高まった。

           良き理解者であった鈴木馬左也もすでに亡く、家長も友純から若い友成に改まり、

           中枢部に多くの政敵が台頭してきたことも鷲尾にとっては不運であった。

7.  住友を退職・・ 昭和6年、これから閉山後の共存共栄に向けて整備を推し進めるという時に

            常務理事に任命され失意の中、新居浜を離れる。翌年、欧米視察の船上において

            突然、常務理事を解雇同然に罷免された。帰国後、依願退職。

           鷲尾を庇ってくれる人物はすでに本社にも居なかったのである。

8.  赤貧洗うが如し・・退職後、職を転々とするも鳴かず飛ばずの状態で、三石での鉱山経営失敗で

           蓄えも使い果たして戦後も困窮の生活が続いた。

9.  新居浜市民に迎えられる・・鷲尾困窮の情報を聞き、自彊舎の弟子や宗像神社の合田正良宮司、

           その他、有志市民が奔走して昭和28年に鷲尾を新居浜に迎え入れた。これを機に、

           終戦後、廃止されていた自彊舎を復活させ、弟子達と悠々自適の生活を続けながら

           昭和56年4月13日 多くの人々に惜しまれて百一歳の天寿を全うした。

           現在も、命日には菊本町の自彊舎道場で鷲尾翁を偲ぶ会が続けられている。

 

以上である。如何であろうか。住友を救ったという人もいれば、住友にとっては穀潰しだったという人もいる。

新居浜にとって大恩人だという人もいれば、日本一を自称する「別労」の歴史上、最大の敵だと言う人もいる。

小生も、特に鷲尾が正しかったとか、住友の言い分が妥当であるとか、ここで評価しようとは思わない。

見方を変えれば、どうにでも評価できる、これが鷲尾勘解治の生き様であり人を引きつける巨大さでもあるからだ。

しかし、明治40年の別子暴動を目の当たりにして、「職員と労働者が反目し、何時も喧嘩をしているようでは

会社の繁栄も従業員の福祉もあったものではない」と痛感して、30年間、彼が追い続けてきたものは一貫して

「上下円融」という理想であったことは左派も認める間違いのない事実である。(別子物語 がんばれ社民党編)

現に鷲尾在任中、会社は空前絶後の繁栄も、倶楽部をはじめとする従業員の福利厚生も共に手に入れることができた。

それがたとえ相容れないイデオロギーの「玉虫色」の妥協の産物だという誹りを受けても、みんながそれを共有できた。

しかし、時は流れ、閉山の頃、自彊舎で教えを受けたある元労働者は、しみじみと鷲尾の時代をこう述懐している。

 

「去年(昭和47年)の十月に旦那(友成)が来られて瑞応寺へ泊まったというのに我われには何の沙汰もなかった。

前の旦那(友純)だったらこんなことはなかったのに・・例えお茶に煎餅でもええから、我われ老人を呼んで

昔の労をねぎらい、膝を交えて語るべきじゃなかったろうか。今の旦那がまだ京大の学生さんだった頃、上部坑を

案内したから、わしは良う覚えとる。仲々立派な青年じゃった。だから旦那が悪いんじゃない。旦那を取り巻く

連中が悪いんじゃ。近頃は三年たったら転勤する。来たか思うたら出て行くから我われ老人は話をする間もない。

じっくり腰を落ちつけて話す人もおらんから、旦那に我われの気持が通じんのじゃ。」(「明治の別子」伊藤玉男著)

 

鷲尾の考えが忘れ去られ、経営者と労働者が互いに分かり会えなくなった時、別子銅山は名実ともに終焉を迎えたのである。

 

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旧別子自彊舎(T1~T5)         東平自彊舎(T5~T15)        新田自彊舎(T15~S20)          現在の自彊舎(S28~)

                              (註:旧別子自彊舎は住友別子病院跡地に創設された。写真は病院当時のもの)

 

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