立川村本村の景

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行こか戻ろか銅山山へ ここが思案の眼鏡橋

 

川口新田から端出場に向かう国領川沿いの集落としては最大の規模を誇る立川本村。

ここは、昔から「仲持衆」や、長い「登り道」の改修に関わる副業が盛んな村であった。

別子銅山開坑当初は、はるばる浦山川から土居天満に抜ける悪路を使用していたが

住友の熱心な交渉により、元禄15年に至って、ようやく幕府と西条藩側との合意が得られ

銅山峰から石ヶ山丈、立川に下り渡瀬の中宿を通って泉川、口屋に至る「登り道」が確立した。

いくら合意とはいえ、幕府が押し切る形での領地替えに、西条藩はさぞ苦々しい思いであったろう。

しかし、立川の人々にとっては、銅山の発展と共に昂まる需要の嵐に“ホクホク”のえびす顔であった。

別子銅山への荷揚げは、当然、ひとりの人間で行う訳ではなく、平地は荷馬車で効率よく運び

山地に入ると、人間が背負って細い山道を辿っていく。途中、何ヵ所かの難所があるため

おそらく、中宿を設けてたびたび交代しながら運び上げていたのであろうが、その辺の考証は、

「山村文化」で、塩田康夫先生や高橋 幹先生が詳しくなされているので参考にしていただきたい。

立川本村は、そのちょうど中間地点にあたる要衝で、荷馬車から仲持ちに交代する場所でもあったから

周辺の村と較べても、とても裕福な賑やかな地域であったことは容易に想像できる。

それに加えて、銅山事務所や代官役所などを兼務する「立川分店」が開設されたのでなおさらである。

 

この写真は、昭和初期の本村全景。ほとんどの家が瓦葺きの重厚な入母屋造りであるのには驚かされる。

これも、農閑期を利用して「作間稼ぎ」に就き、安定した現金収入があったことを如実に物語っている。

しかし、そんな良い環境も、明治に入り、別子銅山の近代化とともに大きな変化が見られるようになる。

すなわち、「明治24年に立川精銅所が廃止され、26年に住友専用上部・下部鉄道が竣工すると

立川山村と周辺の人達がいっぺんに失業し大混乱に陥ったことである。」(「角野のあゆみ」(角野公民館刊))

続けて、「時の別子銅山支配人久保盛明が、その窮状を救うため、千円の救済資金を醵出し、立川山の

関係者と相談、困窮者を庇護するなど、住友側の配慮がなされた。長年、共存共栄の関係を堅持しながら

共に寄り沿い栄えてきた三村(立川村、東西角野村)と住友の関係が、この一事でもよく理解されるのである。」

と、この本の著者は、あくまでも控えめな表現で、金の力によって、平和裡に問題が解決したように書いているが

果たして、そうであろうか?いとも簡単に200年以上続いた「仲持ち」の仕事を絶たれてしまう村人が

黙って引き下がったであろうか?それを示す証拠は、小生が調べた範囲内では、なにも残ってはいないのだが

後年、続発する労働争議や、それを金銭的精神的にバックアップする角野の大親分、木下伝次郎のこころの底に

若き頃、目の当たりにした村民の困窮や、何事も金で解決しようとする住友への対抗心が、渦巻いていたに違いない。

労働者の首を簡単に切り、あまつさえ郷土に冷たい企業上層部を、彼の激烈な義侠心が許さなかったのだろう。

強大な土建業や運送業の財力と人脈は、住友や地元政財界も一目を置き、ご機嫌伺いの木下詣でが絶えなかったという。

惜しい哉、志半ばにして64歳で亡くなるが、彼を慕う町民は空前絶後の町葬を以って、長年の恩義に報いたのである。

それはまた、彼が、すでに歴史の彼方に消えてしまった立川仲持衆の、最後の代弁者でもあったからなのかもしれない。

 

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明治10年代の立川中宿と名物の眼鏡橋             立川眼鏡橋(明治32年に流失)

 

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