歌劇「天空の町〜別子銅山と伊庭貞剛〜」

iba-3伊庭貞剛 略年譜

1847年 弘化4年 現近江八幡市に生誕(坂本龍馬より7歳若い)

      明治維新の21年前

1867年 (慶応3年大政奉還)剣道の免許皆伝授与(20歳)、

1868年 (明治元年、江戸開城)京都御所勤衛隊に編入

1869年 京都御留守守刑法官少監察

      弾正台京都支部へ出仕

1872年 司法少検事(26歳 東京)

1873年 まつと結婚(2年後に病没 享年23歳)

1874年 函館裁判所(権少判事、1年後に副所長)

1875年 梅と再婚

1877年 大阪上等裁判所判事(31歳)、西南戦争

1879年 広瀬宰平の勧めで住友家に入る(33歳) また禅修行の道にも入る

      別子銅山を視察

1880年 大阪本店支配人

1881年 大阪汽船取扱会社頭取

1884年 大阪商船会社設立

1888年 府立大阪商業高校(現大阪市立大学)校長(42歳)

1890年 第1回衆議院議員選挙で当選

(滋賀県第3選挙区、翌年住友家家長の死去で辞任)

1892年 大阪紡績株式会社取締役

1894年 別子の紛争や煙害問題の解決のため別子鉱山支配人として赴任(48歳)

      新居浜製鉄所閉鎖、山林復旧の植林事業を開始、日清戦争勃発

1895年 山根製錬所閉鎖

1897年 四阪島製錬所建設に着手(7年後に竣工)

1898年 別子鉱山山林課(住友林業K.Kの前身)を再設置

1899年 別子鉱業所支配人を辞し本店に帰任

     「五ヶ年の跡見返れば雪の山」 伊庭貞剛

     返句「月と花とは人に譲り」 品川弥二郎(友人:農林行政・殖産興業に尽力)

     住友銀行から倉庫業を分離して住友倉庫開業

     別子大水害の発生で鉱山全施設に壊滅的打撃を受ける

     採鉱課を除く全施設を新居浜に移転

1900年 総理事就任(54歳)

     九州鉄道会社取締役

1901年 住友鋳鋼場(住友金属工業K.Kの前身)開設

1904年 「実業と日本」に所感録として「老成と少壮」を発表

     退職、石山別荘に隠棲(58歳)

     日露戦争勃発

1905年 四阪島製錬所、本格操業開始

     東平・山根収銅所設置(坑毒水の中和施設)

     第三通洞―東平―端出場―新居浜間の坑水路完成(流域河川への鉱毒排出防止)

1923年 住友家顧問、住友銀行監査役、末家委員長等主家関係一切の任を辞す

     関東大震災

1926年 没(80歳、近江八幡西宿の伊庭家墓所に埋葬)

(参考文献:伊庭貞剛小伝―環境対策の先駆者―末岡照啓著 

平成23429日発行 編集:新居浜市広瀬歴史記念館)