坂本 龍馬脱藩の道(泉ヶ峠)

お正月に、「坂本 龍馬脱藩の道、、、泉ヶ峠」へ行って参りました。
もちろん、初めてであります。

ダムと風車の町、肱川町から狭い谷あいの道路を河辺村へ向かって上って
行きます。
対向車があると、少し広い離合場所まで移動しなければなりません。
無事離合をし終えると、笑顔で挨拶を交わし、「ありがとう!!」の合図
をします。
「アァーー、篤き人情が残ってる!!」...そう解釈する私は」、お人好し
なのであろうか、、、???

五十崎町方面の標識の所で、左折し、、、また、狭い道路を上っていきました。
暫くすると、「坂本 龍馬脱藩の道」と書いた矢印がありました。

私は歩いて登りたかったのですが、家のカミさは車から降りようとしません。
時間も午後3時になってたので、車で行くことにしました。

幾度とな急カーブをく曲がり、、、道を間違えたのではと、不安になってきた頃、
峠に到着しました。
金色に輝く「枯れススキ」が、私たちの訪問を歓迎して呉れているかの様でした。

そこには、看板があり、次の様に書かれておりました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      坂本 龍馬脱藩の道(泉ヶ峠)
 文久2年(1862)春、土佐の郷士坂本 龍馬は、風雲急を告げる時局を
洞察し、自らの使命を自覚するや、決然として土佐を脱藩した。

 3月24日、同志沢村惣之丞と高知を立った龍馬は、25日檮原の那須俊平、
信吾親子の家に泊まり、翌26日、大野ヶ原は韮ヶ峠の国境を越えた。
その後、ここ泉ヶ峠に着き、沢村惣之丞、そして道案内の那須俊平とともに
一夜の宿をとった。

 かってこの峠には、旅館などがあり、土佐街道の要所として賑わっていた。

 脱藩後の最初の夜、龍馬はこの峠でどんな夢を見たであろうか。
                     五十崎町教育委員会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

しかし、現在は旅館もなく、土佐街道の要所として賑わいは想像もできません。
唯、限りなく山並みが連なり、、、「枯れススキ」が、揺れておるだけでした。

もし、今、、、龍馬が、生きていたとしたら、、、
彼は何を夢み、何を考え、何をしょうとするであろうか?
風雲急を告げるごとく何かを悟り、決然と立ち上がるのだろうか?

混迷化する世界経済の中で、、、
今こそ、、、龍馬のような決断と.実行力と.エネルギーと発想転換が、求められ
ているのではあるが。。。


戻る