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47卒 井手浩一

 元々、今回の会報には一切文章は書かないつもりでいました。ですが、ご承知のように平成五年卒の白石裕子さんの急逝という悲しい出来事があり、一つ上の学年の青柳(世良)美智代さんから真摯な追悼文を寄せて貰いました。その中に、白石さんの経歴とか最近のご様子とかは私に、という依頼がありましたので、まだ何もご存じない会員のために、一度ホームページに書いたことと重複するかもしれませんが、ここに記しておきます。

 白石裕子さんは大阪大学法学部へ進まれた後、法曹の道を志し、司法試験に見事に合格されました。
司法修習も最初の任官もご両親のおられる松山で終えられ、この四月から東京地方裁判所民事部の判事補として赴任されたばかりでした。裁判官にも民間の風を、という趣旨で東芝に一年間出向していて、亡くなられる前の日にも職場の方に講義をされたそうです。
 亡くなられたのは推定で、10月18日土曜日の午後二時頃だそうです。いつものようにテニスの練習に行かれ、それから帰って来たままと思われるジャージ姿でベッドの上で横になっておられたとうかがいました。20日の月曜日の朝になってその異変が分かりました。官舎で一人暮らしだったのが奇禍の原因だったのでしょうか。
 ご葬儀で平成三年卒の矢野信子さんと隣り合わせになりました。彼女は松山地裁勤務時代の白石さんとは良くテニスをして、転勤までは一緒にお酒も飲みに行っていたそうです。「最近何か身体の不調を訴えていたの?」という問いに黙って首を振りました。

 お父様のご挨拶や松山地裁の所長さんの弔辞の内容を要約します。白石さんは本当に温厚な性格でねばり強く、人の話を良く聞いて、周りから自然に信頼を集める女性でした。仕事を苦にする風はどこにもなく、裁判官という職業を天職と考えられていた様子でした。裁判所での討論会でもいつもリーダー役を買って出て、一旦その討論が終わった後は、いかにも若い女性らしく会話やお酒を楽しまれていたそうです。決して真面目一方ではなく、ユーモア感覚にも富んだ人でした。
 私は白石さんとは僅かなご縁しかありません。十数年前の演奏会の後で片づけを手伝って貰った記憶がなければ、ご葬儀にも行かなかったと思います。ですが、そんな微かな記憶の中にも確かな印象を与える素晴らしい女性でした。その思いは、日が経つにつれますます強くなります。
 お父様のご挨拶は、途中から言葉になっていませんでした。異変を聞いて、万が一の僥倖を願って上京したけれど、既にどうにもならなかったこと、変わり果てた娘の姿を見た時は涙が溢れて止まらなかったこと、一度は我が子が口頭弁論を指揮する姿をそっと見てみたかったけれど、それがかなわなかったこと等を途切れ途切れに話されました。

 祭壇には、赤いドレス姿の白石さんの笑顔がありました。本当に柔らかい、チャーミングな笑顔でした。ああ、この表情で三十何年間を生きて来られたんだなと思い、たとえ短い一生ではあっても、周囲の人全てに温かな想い出を残された、見事な人生だったと感じました。
 最近はお話しする機会もなかったのですが、演奏会は何度も聞いてくださっていたようです。もし許されるなら「今年の演奏会どうだった?」と尋ねてみたかったと思います。「増田七恵さんの指揮、素敵だったろう?」と言ったら、きっとニッコリ微笑んでくれたと思います。

 白石裕子さん、ありがとう。そしてさようなら。いつまでもあなたのことは忘れません。




  

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