ESSAY
 


    落ち葉

12月に入って、初冬という言葉がぴったりとする日々が続いています。吐く息が白く見えるようになり、北風も吹く早朝、園庭に出てみると落ち葉か゛庭の隅に集まっています。

 晩秋の黄金色のイチョウの葉や藤棚を飾った黄色い葉も今は散って梢だけが、青く晴れあがった冬空に、ひと際稟として冬に立ち向かっています。ここ半月ほど、夜のうちにきっと落ち葉を箒で集め、子供たちが聞遊ぶ砂場や遊具の回りを掃除するのが私の早朝の日課になっています。

 子供たちもそれはわかるのか、九時を過ぎるころになると、「先生今日は掃除しないの」、と私を誘に来る子が何人かいます。私も、その声にいそいそと園庭に出て行き、いつものように箒とちりとりを手に落ち葉をかき集め始めるのです。落ち葉も雨に濡れたり古くなったものは、地面にまとわりついたりはりついたりしてなかなか思うように掃くことができません。

 今朝も、園庭を掃きながら、子供たちが、年に元気よく遊んでいる様子を見ていました。私は、早く掃除をすまそうと急いでイチョウの木の回り落ち葉をかき集めました。私にとってはただのゴミに等しい落ち葉だったのです。突然、横からA子ちゃんが「その落ち葉きれいだからちょうだい。」といって箒の前に座るとイチョウの葉を集め始めました。それにつられるように何人かの女の子が同じようしゃがみこみ落ち葉を集め始めました。私は驚いて箒で掃くことをやめました。

 大人がただのゴミとしか感じない落ち葉を、子供たちにとてはきれいな宝ものに見えるのでしょうか。子供の目の新鮮さに驚くと同時に子供と同じ目で見続けること、同じように感じ続けることはなかなか難しいものだと思いました。アメリカの1950年代の作家、J.D.サリンジャーの小説に「ライ麦畑でつかまえて」の中で、主人公のホールデンが最後に、精神病院のベッドの上で「大人はみんな自分が子供だったときのことを忘れている。みんな子供と同じだったのに。」というセリフを話している部分があります。曇りのない感覚を持ち続けるのは難しいけれど、大切なことだと思いました。

 その最後の落ち葉は、今も固まってイチョウの木の根元で、冬を待ています。        
 


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