[漱石と松山]

子規から始まった
松山との深い関わり
漱石と松山
中村 英利子
A5版/226ページ
並製本・表紙カバー
貴重な資料写真160点余収録
¥1600+税

 夏目漱石と松山との関係といえば、言うまでもなく、彼が松山中学の英語教師として一年足らずを過ごしたところ、ということになる。
 その時の体験を元に小説『坊っちゃん』を書いたことはあまりにも有名だが、世の人はそれを評し、「松山人はお人好しだ。あれほど小説で悪口を書かれておりながら、怒るどころか、むしろ有り難がっている」と冷笑する。
 しかし、それは表面的な見方である。松山人たちが、いかに漱石と深く関わっていたか、いかに彼の人生に大きな影響を及ぼしたか。それは漱石、いや、彼が作家となる以前の夏目金之助の青春期から始まっていた——。

 漱石に関する本が絶え間なく出てくる。49歳という漱石の生涯も、11年という作家生活も、けっして長くはないのだが、漱石はその人物像も作品も、汲めど尽きぬさまざまなものを内包し、研究の題材として魅力的だからであろう。
 さて、本書は漱石と松山との関わりを、主に交友関係、師弟関係にあった「人」から見ていったものである。漱石は松山にはわずか一年しかいなかった。しかもこの1年間は、漱石にとってけっして愉快なものではなかった。にもかかわらず、漱石と松山との関わりが深いのは、こういう人たちがいたからなのだということを、松山人として知っていただきたかったからである。子規没後百年にあたるこの年に出版した意味は、ひとえにここにある。
 松山は、全国的な知名度という点からも、道後と結びつけた観光面からも、これまで漱石から大いなる恩恵を受けてきた。少々悪口を言われようがどうしようが「漱石様々」という調子でやってきた。しかし、なんでもかんでも有り難がるのは情けないし、誉められたところだけ出すというのも姑息である。だから、本書では漱石が嫌がった松山の悪いところも、あえて出した。そこにこそ、漱石自身の素顔や本心、作品とは異質なユーモアが潜んでいると思うからである。
 ところで、最近は松山人ですら、漱石と松山を結びつけるのは、一年間松山中学の英語教師としてやってきたことと、それをもとに『坊っちゃん』を書いたことくらいしかないと思っている人が多い。寂しい限りだが、無理もない点もある。現代人にとって漱石は、鴎外とともにすでに古典の範疇に入りつつある。
 そのため本書では、漢字やかなを現代の表記にし、初期の文章については現代語訳させていただき、少しでも読みやすいものにすることを主眼とした。とはいえ、なかにはどうしても原文のまま残したいものもあって、はなはだ不統一なものとなった。日本文学の門外漢の私が、浅学非才を顧みずに行ったことゆえ、おそらく多くの誤訳、誤読があるものと思うが、それらにお気づきになればご教示いただけると有り難い。
 最後に、お忙しい中、原稿をお寄せいただいた半藤一利氏、坪内稔典氏にこの場を借りてお礼を申し上げます。

●第1章 子規との出会い

 松山との関わり……それは子規から始まった。
 ともに、日本中から集まった超エリート集団、
 東京大学予備門の俊英である。

●第2章 漱石と松山

 漱石は、なぜ松山にやって来たのか……
 帝大英文科を 優秀な成績で卒業した漱石が、 
 中学校教師になった不思議。 

●第3章 松山での漱石

 松山にやってきた来た漱石の日々は……
 親友・子規の郷里に来た中学の英語教師は、 
 こんな毎日を送っていた—。

●第4章 松山を去って

 その後の漱石 熊本での漱石は、俳句仲間の消息を
 知るだけが楽しみだった。

●第5章 作家・漱石と松山人

 漱石、「ホトトギス」で本格的デビュー。

●第6章 松山での漱石、坊っちゃん伝説

 文豪の作品には、さまざまなエピソードが誕生するものである。
 漱石の妻・鏡子と、娘婿にあたる松岡譲が、漱石十三回忌にあたる年、三十三年ぶりに旧跡を訪ねる旅に出た。旅程は、長崎、雲仙、熊本、別府、松山の順序で、目的は熊本・松山の旧居の跡をたずね、それぞれの写真を撮ったり、当時の知り合いに会い、その頃原稿を書いていた未亡人の『漱石の思い出』を追補しようという取材旅行である。初めて新婚家庭をもった熊本にはいろいろな思い出もある。夫人も楽しみにして出かけた。
 松山は漱石が独身時代の赴任地なので、二人とも訪れるのは初めてだったが、そこには虚実ないまぜの漱石伝説、坊っちゃん伝説が流布していて、二人はそれを聞かされることとなった。

●第7章 漱石と能

 漱石は能を観るのが好きだった。それだけでなく、自ら謡も謡い、弟子たちも漱石にならって謡に精を出した。そのきっかけをつくったのは、高浜虚子である。虚子の曾祖父や父は松山藩主お気に入りの能楽師で、兄・池内信嘉は明治以降、衰退の一途をたどる能を再興するために上京し、大きな功績を残した人物である。
漱石が熱中した能は、松山人たちと意外な関係があった——。

●第8章 松山ゆかりの漱石の弟子

 生涯、漱石を師と仰いだ松根東洋城

「漱石山房」と呼ばれていた漱石の家では、面会日が木曜日と定められ、「木曜会」と名づけられていた。これは、弟子たちがあまりにひんぱんにやってきて執筆を妨げるので、辟易した漱石が決めたものである。
 その常連ともいうべき連中が、漱石の十弟子といわれている寺田寅彦、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、安倍能成、野上臼川、赤木桁平、岩波茂雄、鈴木三重吉、そして松根東洋城である。
 なかでも、松根東洋城は松山中学で漱石の教えを受けたから、弟子の中でもかなり古手である。安倍能成も松山中学の出身だが、彼の場合、漱石が転任後に入学したから、教え子というわけではない。
 いずれにしても、漱石と松山との関係は、弟子と、その周辺の人たちとも不思議につながっていた。

 漱石から「人生と哲学」を学んだ安倍能成

 哲学者、教育家で、戦後は文部大臣、学習院院長などを務めた安倍能成は、明治十六年、松山市に生まれた。
 松山中学を卒業後、第一高等学校に進み、英国帰りの漱石の生徒となった。
 東大の哲学科に進んだ頃、謡の縁で野上豊一郎に誘われ、漱石山房を訪れたのが、弟子のひとりとして深く関わったそもそものきっかけ。その後頻繁に山房を訪れるようになった。
 また、漱石が朝日新聞社に入社後主宰した「朝日文芸欄」では、漱石山房に出入りした森田草平や小宮豊隆、阿部次郎らとともに活躍し、文芸評論などを多く書いた。
 能成は大正教養派の一源流となった存在で、幅広い教養と哲学的エッセイに味わい深いものがあるが、漱石に師事しながらその哲学や文学に触れ、傾倒した経験が大きく影響していることは間違いない。

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