●第1章 子規との出会い
松山との関わり……それは子規から始まった。
ともに、日本中から集まった超エリート集団、
東京大学予備門の俊英である。
●第2章 漱石と松山
漱石は、なぜ松山にやって来たのか……
帝大英文科を 優秀な成績で卒業した漱石が、
中学校教師になった不思議。
●第3章 松山での漱石
松山にやってきた来た漱石の日々は……
親友・子規の郷里に来た中学の英語教師は、
こんな毎日を送っていた—。
●第4章 松山を去って
その後の漱石 熊本での漱石は、俳句仲間の消息を
知るだけが楽しみだった。
●第5章 作家・漱石と松山人
漱石、「ホトトギス」で本格的デビュー。
●第6章 松山での漱石、坊っちゃん伝説
文豪の作品には、さまざまなエピソードが誕生するものである。
漱石の妻・鏡子と、娘婿にあたる松岡譲が、漱石十三回忌にあたる年、三十三年ぶりに旧跡を訪ねる旅に出た。旅程は、長崎、雲仙、熊本、別府、松山の順序で、目的は熊本・松山の旧居の跡をたずね、それぞれの写真を撮ったり、当時の知り合いに会い、その頃原稿を書いていた未亡人の『漱石の思い出』を追補しようという取材旅行である。初めて新婚家庭をもった熊本にはいろいろな思い出もある。夫人も楽しみにして出かけた。
松山は漱石が独身時代の赴任地なので、二人とも訪れるのは初めてだったが、そこには虚実ないまぜの漱石伝説、坊っちゃん伝説が流布していて、二人はそれを聞かされることとなった。
●第7章 漱石と能
漱石は能を観るのが好きだった。それだけでなく、自ら謡も謡い、弟子たちも漱石にならって謡に精を出した。そのきっかけをつくったのは、高浜虚子である。虚子の曾祖父や父は松山藩主お気に入りの能楽師で、兄・池内信嘉は明治以降、衰退の一途をたどる能を再興するために上京し、大きな功績を残した人物である。
漱石が熱中した能は、松山人たちと意外な関係があった——。
●第8章 松山ゆかりの漱石の弟子
生涯、漱石を師と仰いだ松根東洋城
「漱石山房」と呼ばれていた漱石の家では、面会日が木曜日と定められ、「木曜会」と名づけられていた。これは、弟子たちがあまりにひんぱんにやってきて執筆を妨げるので、辟易した漱石が決めたものである。
その常連ともいうべき連中が、漱石の十弟子といわれている寺田寅彦、小宮豊隆、阿部次郎、森田草平、安倍能成、野上臼川、赤木桁平、岩波茂雄、鈴木三重吉、そして松根東洋城である。
なかでも、松根東洋城は松山中学で漱石の教えを受けたから、弟子の中でもかなり古手である。安倍能成も松山中学の出身だが、彼の場合、漱石が転任後に入学したから、教え子というわけではない。
いずれにしても、漱石と松山との関係は、弟子と、その周辺の人たちとも不思議につながっていた。
漱石から「人生と哲学」を学んだ安倍能成
哲学者、教育家で、戦後は文部大臣、学習院院長などを務めた安倍能成は、明治十六年、松山市に生まれた。
松山中学を卒業後、第一高等学校に進み、英国帰りの漱石の生徒となった。
東大の哲学科に進んだ頃、謡の縁で野上豊一郎に誘われ、漱石山房を訪れたのが、弟子のひとりとして深く関わったそもそものきっかけ。その後頻繁に山房を訪れるようになった。
また、漱石が朝日新聞社に入社後主宰した「朝日文芸欄」では、漱石山房に出入りした森田草平や小宮豊隆、阿部次郎らとともに活躍し、文芸評論などを多く書いた。
能成は大正教養派の一源流となった存在で、幅広い教養と哲学的エッセイに味わい深いものがあるが、漱石に師事しながらその哲学や文学に触れ、傾倒した経験が大きく影響していることは間違いない。 |