夏目漱石の小説「坊っちゃん」に登場したことから、「坊っちゃん列車」の愛称で人々に親しまれ、明治、大正、昭和と松山平野を走り続けてきた軽便鉄道の機関車たち。伊予鉄道は、昭和6年に高浜線を電化し、最新型の電車を走らせていましたが、森松線や横河原線、郡中線には相変わらず坊っちゃん列車が走っていました。
戦争末期の昭和20年7月26日、米軍機による空襲で松山市は甚大な被害を受け、伊予鉄道も本社社屋や駅舎をはじめ、電車三30両以上が焼けてしまいました。しかし、坊っちゃん列車は、機関士の機転で、古町の車庫ではなく、立花の土手下に避難させていたことから奇跡的に焼失を免れ、60歳近い老朽車ながら、戦後の
”庶民の足 “として大いに活躍しました。
私が伊予鉄道に入社したのは、そんな戦後のどさくさの時期ともいえる昭和20年秋。私が15歳の時でした。私が配属された機関庫は、もともと男臭い職場ではありましたが、軍隊式の上下関係の規律がやたら幅を利かせていた時代だったこともあり、たった3日早く入社しただけの同年輩にも、「古参」として敬意を表さなければ、「横着な」とどつかれました。また、物不足の激しい貧しい時代でもあり、現代の人が驚くようなものを食べたり飲んだりしておりました。
しかし私にとって、自動車バス関係に転任するまでの坊っちゃん列車との8年間は忘れがたいもので、いつか、この時期のことを書き残しておきたいと思っていたところ、昭和30年の初め頃、組合の機関紙に坊っちゃん列車の思い出を書いてみないかという話がありました。小学生の頃、綴り方を書いて以来文章など書いたことがなく、自信がなかったのですが、先輩の皆さんのご協力もあってどうにか役目を果たすことができました。
平成元年秋、44年間に及んだ伊予鉄道生活に別れを告げ、定年扱いで退社しました。その後、私に関するスクラップを整理していると、その記事の切り抜きが出てきて、読み返しているうち、退職記念として一つのものにまとめてみようと思いつきました。整理をして不十分なところは挿し絵を含めて書き足し、先輩にアドバイスをしていただいたり、写真を提供していただいたりしてなんとか出来上がり、退職金の一部が役立ちました。今回出版した本書は、坊っちゃん列車復活を機に、出版社によって改訂復刻されたものです。
伊予鉄道の基礎を築き上げた坊っちゃん列車の歴史は、会社発行の記念誌などで一般に知られておりますが、ここでは、私自身が経験した戦後まもない頃の、坊っちゃん列車の最晩年の話が中心になっています。十分なものではありませんが、小説家ではありませんので、その点よろしく。 |