二神鷺泉(にかみろせん)が亡くなって77年になる。鷺泉は道後湯之町で生まれ、80年の生涯を道後温泉と共に過ごした。鷺泉は私にとって曾祖父に当たる。父の話によると「父忠三郎は恐かった。しかし、お祖父さんは優しかった。悪戯をして親父に怒られそうになると、いつもお祖父さんの所に逃げ込んだ。そうするともう親父は怒るのを諦めた」という話を何度も聞かされた。そこには孫に目のない老人の姿が浮かんでくるのである。
この著書は一面私の先祖史でもあるが、単なる伝記に終わらせたくなかった。なぜ、私が鷺泉のことを書こうとしたか、それは鷺泉が家業の宿屋と農業に励みながら俳諧を学び、のちに宗匠となって多くの人たちに慕われ、悠々と一生をまっとうしたその生き方と共に、当時の開かれた文化都市・道後湯之町の暮らしを知りたいと思ったためである。
また近代俳句の父となった正岡子規も同時代を生きた人であったが、鷺泉は、湯之町という温泉町で普通に暮らしていた市井の人である。日常生活の中では、俳諧も連歌も理屈ではない生活そのものであり、趣味であり、娯楽であった。だからこそいくら写生論が注目されようと、新俳句が流行しようとも、変わることがなかったのである。といっても全く影響がなかったわけではなかった。鷺泉の遺品の中には、柳原極堂が情熱を傾けた子規堂建設のメモがあり、寄付もしている。また、なんだったかはっきりしないが、父がこの人のものはさわると肺病になるといって庭で燃やしてしまったものもあった。本文にも書いているが、子規と鷺泉は大原其戎という旧派の宗匠に俳諧を教わった仲間であった。二人は会ったことはなかったが、俳誌「真砂志良辺」の同じ号に投句が並んで掲載されているのである。
さて、道後湯之町は開かれた町で、多くの人々が湯治や入浴にやって来た。東京や阪神方面からは、最新の流行が持ち込まれた。湯治しながらいろいろな情報が伝えられ、交換された。湯之町には庶民の湯治客のほかに、政治家、企業家、絵描き、詩人、書家など、多くの文化人がやってきた。そのため町内にはいろいろな倶楽部ができ、人の集まりがあった。その典型が、伊佐爾波神社野口家の玉石堂に集まった人たちである。そこは文化サロンであった。有名な書家三輪田米山もたびたび入浴にきて立ち寄った。また書家の大西霞洲や江戸桑山、歌会に集まる西村清臣たち歌人や俳諧仲間たち、これらの人たちとの交流もあった。
明治時代の道後湯之町を語るとき、伊佐庭如矢翁のことを抜きにはできない。多くの紙面を割かざるを得なくなったのはそのためである。また紆余曲折があったが、平成14年4月に開園した道後公園湯築城跡の前身、道後公園のことも避けて通ることはできなかった。当時は今日のような文化財保護や史跡保存が重要なテーマではなかった。明治時代には、人々が自由に散策できる公園を造るという発想自体が新しい考え方であった。明治とはそういう時代であった。 |