四国西南部・由良半島の暮らしを写した
貴重な写真集三部作が、復刊!
段々畑の村に生まれ、少年期を過ごした私にとって、由良半島は思い出の深い地である。小学校四年生から3年ほど父の赴任先である魚神山(ながみやま)小学枚に通い、村の生活が強く印象に残っている。
まつたく偶然であるが、海軍での勤務先も由良要塞であった。当時は、軍事機密として労役以外は岬の立ち入りが禁止され、沖を航行する船は岬の見える窓側を遮蔽して通り、地元の人も装備の内容を知らなかった。
戦後、宇和島に出て漁村相手の電機商を営むようになり、再び半島の網元を訪れることになつた。村は大漁が続き、芋麦も高く売れて景気はよかったが、生活は相変わらずで、明治時代を偲ばせる環境であった。
記録写真を写そうと思ったのは、このころからである。村に写真機を持っている人はなく、私が撮らなければ永久に生活記録は残らないと思い、義務と責任を感じて写し始めた。
当時の村人の生活を都会人から見れば、苛酷な労働だけで、芋麦を育成する情愛と勤勉さは分からなかった。村人や都会で働く若者を思うと、発表は世が変わった時にと考え、私が死ねば、原板を墓にでも入れて保存し、後の人にお任せしようと思っていた。平成の時代になり、私が写したお年寄りはほとんど亡くなり、私も若年寄りになった。昭和40年代までの子供は、顔と体つきを見れば親が誰かとすぐに分かった。ところが、今の子供を見ると、みな、垢ぬけして格好がよく先代の想像がつかない。温かく豊かな家庭と、テレビなどの情報文化によるものであろう。
お年寄りが今の時代を見ると、これでよいのかと思う。昔のことを話そうとしても、若い人は興味がなく、伝説にもならない。昔を語る生活用具も残らず、完全に時代が変わった。今だからこそ話せることもある。
先祖から受け継ぎ、子孫に残すために精いっぱい働いた大先輩のお年寄りに代わって、私の見たこと、開いたこと、感じたことを、忠実に写真と文で後世の人に伝えたい。
B5判モノクロ 152ページ 布張り上製本写真 点数121点
作者による当時の状況を記した詳細な文章も掲載
藩制の頃から、村人に食糧を供給してくれた段々畑は、長い務めが終わり、静かに原野に還っている。遠くから風に吹かれ鳥が運んだ草木の種子は、春になると、色とりどりの姿で美しく芽ぶき、見慣れない木も何種かある。今、二十歳代の原野も、あと百年もすれば、南伊予独特の原生林になるであろう。
海藻の茂っていた海では、“真珠”“はまち”の養殖が行われ、芋麦を干していた浦には、カラフルな屋根の作業楊が並んでいる。その中で、老いも若きも家族ぐるみで、朝早くから夜更けまで仕事に励み、昔と変わらないのは、村人の人情と勤勉さである。
高度成長で国中が豊かになり、気品のある真珠のアクセサリーとグルメ志向で、働くほど収入が増え、休日は、高級車に家族を乗せてレジャーを楽しむようになった。狭い敷地は昔通りであるが、立派な住宅が建ち、室内には豪華な家具を備えて、昔を知っているお年寄りには夢のようである。汚染のない自然の海は、無限の宝を恵んでくれた。
由良岬での体験は貴重であった。海軍精神を注入すると称して新兵を殴り、囚人扱いだと少年兵は泣いた。殴った下士官は空戦のとき壕に逃げていた。少しでもお国に役立ちたいと、純粋な気持ちで海軍を志願した学生兵にとって、現地の生活は想像外であった。一兵の生命も大切にして、危険をおかして宇和海に着水した救助の米軍飛行艇を、撃たなくてよかったと、いま思う。
要塞は、敗戦後に米軍が爆破したが、廃墟が昔の名残りを留めている。訪れる者も少なく、人の住まない岬は、野鳥と昆虫の楽園になり、眼下に広がる宇和海は、魚類が豊富で、全国的な磯釣りの名所になっている。
岬からの展望は、速く鵜来島、沖ノ島が見え、太平洋に続く。半世紀前のいくさは今やもう歴史の中。いま、人々は平和の尊さも忘れかけている。
美しい郷土の風景、出会ったすべての方々が、私の人生の師匠であり、私の現在があると感謝をしている。 |