四国西南部・由良半島の暮らしを写した
貴重な写真集三部作が、復刊!
宇和海とは、四国・佐田岬半島の南から、太平洋を望む高茂岬にかけての海域をいい、長くて美しいリアス式海岸になっている。瀬戸内海の入り口に当たるので、古くから海上交通の大動脈であった。
神話の時代、神武天皇が日向より大和に御東征のとき、沿岸の住民が火を振って海道を教えたとの言い伝えがある。
承平・天慶の乱では、日振島を基地として藤原純友が蛮勇をふるい、貴族中心の朝廷に反乱を起こしたという。徳川政権になると、伊達10万石の所領になり、藩の奨励もあって漁業が振興し、段々畑で芋麦を耕作して食糧を自給した。
半世紀前の太平洋戦争では、兵士や軍需物資を満載した多くの艦船がこの海を通って出撃し、再び還らなかった。
戦後になっても、宇和海の村は半農半漁の生活が続いた。急傾斜の段々畑では牛馬や農業機械が使えず、百年昔と変わらぬ肉体労働だった。豊富なプランクトンに恵まれた海は、戦中の灯火管制によって魚が増えて大漁が続いたが、やがて乱獲がたたり、潮流も変わって回遊魚が減り不漁になった。当然、肉体労働で鍛えた若い男は京阪神方面に出稼ぎに行き、村の過疎が始まった。段々畑は、あとに残ったじいちゃん、ばあちゃん、かあちゃんの三ちゃん農業でささやかに守られた。
昭和40年代になると、どの浦も真珠、ハマチの栽培漁業が始まり“とる漁業からつくる漁業に”と転向した。東京オリンピック、万国博覧会などで都会の景気が好転し、再び宇和海の村は、海からの恩恵を受けるようになった。
台風、干ばつ、洪水、地震、津波など苦難の出来事があったが、住む人の辛抱強さと努力で克服してきた。村人は先祖から伝わる行事や習慣を大切に守り、貧しい中にも情愛が深く、豊かな今の暮らしにはない心根があった。
B5判モノクロ 154ページ 布張り上製本写真 点数128点
作者による当時の状況を記した詳細な文章も掲載
段々畑の続く宇和海の村に生まれ、海藻の茂る海で泳ぎ、いわしと芋を食って育った私は、戦後、宇和島で漁村相手の電機商を始めた。バッテリーと集魚灯の訪問販売に浦方の集落をまわり、村の人と親しくなってお話を聞くうちに、暮らしや出来事の写真を撮るようになつた。
当時の宇和海は、どこに行くにも集落を結ぶ道路がなく、近くまで船やバスで行き、険しい段畑道を上ったり下ったりして歩くほかはなく、おかげで足は今も丈夫である。
段々畑からの展望は素晴らしい。目の前いっぱいに広がる青い空と海、点在する島と串の形をした半島や入江の眺めは、如何なる庭園の名手でも、いくら金をかけてもできない自然の名園である。苛酷な労働にかかわらず、住む人の表情が明るいのは、毎日眺める景観のおかげであろう。
村人は子供からお年寄りまで逞しく働き、男は漁業、女はとれた魚の塩干しや煮干しづくりに忙しく、畑仕事は家内じゅうでした。どの家も五人以上の子供がおり、子供たちは自由にのびのびと育った。
古稀になり商売を引退した私にとって、今まで私の生活を支えて貰った宇和海の方にお返しできることは、結果として郷土の記録になった写真を整理して忠実に次の世代に伝えるのが、私に与えられた役目だと思い、写真集を作ることにした。
ところが、50年にわたって撮った写真原板のすべてに思い出が残り、選ぶのに困った。それに文章が思うように表現できず、今までの不勉強を思い知らされた。原板を見ながら追憶にふけり、見たこと、聞いたこと、肌で感じたことを甦らせながら書いた。また、伊達家に伝わる宇和島藩庁史料、旧家の古文書などを快く見せていただき有り難かった。
写真も文章も、私のまわりの方との合作であり、宇和海の記録として後世に残れば、無上の喜びである。 |