[秋より高き]

晩年の秋山好古と周辺のひとびと
秋より高き
片上 雅仁
四六判・184P
¥1200+税

知られざる好古の松山生活を描く!!

 司馬遼太郎原作『坂の上の雲』が、いよいよ平成21年からNHKの大河ドラマに登場。俳人正岡子規と日露戦争の日本海海戦で日本を勝利に導いた海軍参謀・秋山真之、そして真之の兄・秋山好古を中心とする明治の群像が登場するスケールの大きなドラマである。
 本書は、その好古が陸軍大将となり、退役軍人となった後、郷里・松山に戻って私立の中学校校長を務めた6年間を描いたものである。
 道後温泉と、ヘボ碁と晩酌が大好きなオジイチャン校長先生ではあったが、卓越した見識と国際感覚を持った好古は、教育に対してもしっかりとしたリベラルな考えを持ち、さまざまな心温まるエピソードを残した。
 故郷松山発ならではの、軍人ではない好古像が見えてくる一冊である。

 愛媛県松山市出身である秋山好古・真之兄弟の日露戦争における活躍ぶりについては、司馬遼太郎『坂の上の雲』などに詳しく述べられている。
 兄の好古は、明治の陸軍にあって、騎兵というものを育てた。江戸時代終わりまでの日本には、鎧甲を付けて馬に乗り、刀や槍で戦うという戦国時代流の騎兵戦法しかなかった。騎兵銃を背負い、「騎兵砲」という小型の大砲も引っ張っていって、組織的な戦闘を行うという日本近代の騎兵部隊は、ひとえに好古の努力によって育てられたと言っても過言ではない。日露戦争において好古は、自ら育てた騎兵旅団を率いて戦場に臨み、当時世界最強と言われたロシアのコサック騎兵団を相手に独自の戦法で対抗し、よく戦線を支え続けた。また、騎兵の機動力を生かして、さかんに威力偵察部隊を送り、敵情について正確な情報をもたらすとともに、敵の後方を脅かした。
 弟の真之は、日本海軍にあって「智謀湧くが如し」と言われた天才肌で、日露戦争のときには連合艦隊司令部参謀として、司令長官・東郷平八郎の頭脳となった。このときの海軍作戦のほとんどは、真之の頭脳から出たと言われている。日露戦争海軍戦のクライマックス、バルチック艦隊を日本海に迎え撃った海戦において、連合艦隊主力は後に「東郷ターン」と呼ばれた奇想天外な艦隊運動を行って世界の海軍関係者をあっと言わせたが、これもまた真之の考案したことであった。文学者・正岡子規と幼なじみにして大親友。真之自身、海軍きっての名文家としても知られた。
 真之は大正7年、海軍中将現役のまま病気で亡くなったが、兄の好古のほうは昭和5年まで長命した。
『坂の上の雲』の最後のほうに、つぎのようなくだりがある。
「しかし好古は爵位ももらわず、しかも陸軍大将で退役したあとは自分の故郷の松山にもどり、私立の北予中学という無名の中学の校長をつとめた。黙々と6年間つとめ、東京の中学校長会議にも欠かさず出席したりした」
 この私立北予中学校は、昭和13年に県立に移管され、第二次大戦後の学制改革によって愛媛県立松山北高等学校となり、現在に続いている。
「どんな校長先生だったんですか」「やっぱり軍隊調でビシビシやったんですかねえ」とよく尋ねられるのだが、好古の校長ぶりは決して「軍隊調」ではなく、むしろその逆であった。
 秋山好古という人の思想や見識は、きっと、軍人時代よりも中学校校長時代のほうによく表れている。その思想見識とともに、好古と手を携え合って時代を切り拓いた人々のことも、ここに御紹介申し上げたい。そこから学ぶべきこと、考えるべきことがたくさんあると思うからである。

1   校長就任
2   北予中学校の揺籃とパリの縁
3   無休主義
4   温厚と平等
5   人間的吸引力
6   校長の責任
7   生徒は兵隊ではない
8   松山高校の紛争を調停
9   運動競技は各国民の品位を代表する
10  温泉、ヘボ碁、都々逸
11  天皇の見方
12  経世の道
13  自治と科学的精神
14  関東大震災、朝鮮、中国
15  自分の劣勢を認める勇気
16  私学的自由の尊重
17  若き日に「必ずしも艶聞なきにあらず」
18  同志たち (1) 加藤恒忠
19  同志たち (2) 新田長次郎
20  同志たち (3) 白川義則
21  舞台まわしは井上要
22  校長はすでに老いて
23  自己教育
24  銅像は見ている

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