台湾を愛した日本人Ⅱ

台湾を愛した日本人Ⅱ

古川勝三
四六判・240P・ハードカバー
¥1,750+税

 この本は、3年前の2012年、台湾の映画制作会社から「KANO」の製作にあたり、野球指導者・近藤兵太郎について問い合わせがあったことがきっかけとなって生まれました。
 甲子園初出場ながら嘉義農林学校を準優勝にまで導いたにもかかわらず、松山市民で今、そのことを知る人はなく、戦後、兵太郎から直接教えを受けた新田高校野球部OBですら、そうした事実を知りませんでした。
 新田高校野球部OBによって「近藤兵太郎をたたえる会」が発足し、林会長ら一行は実情を視察しようと台湾に赴き、兵太郎の名前や功績が今も台湾の人々に記憶され、尊敬されていることを知って、その顕彰を決意。出身地である松山市に記念碑を造る活動を始め、ようやく人々の脳裏にその名が刻まれ始めたころ、映画「KANO」が公開され、大きな感動を呼びました。

 台湾で教壇に立った経験のある著者・古川勝三は、帰国後も日台両国の相互理解に努めてきましたが、「KANO」の映画を観て感動したことや、近藤兵太郎の記念碑除幕式に参加し、遺族ら関係者と出会ったことで、その生涯を書き残すことを思い立ち、このほど出版の運びとなりました。

 近藤兵太郎の生涯をたどった評伝で、次のような構成となっています。
         序章 顕彰碑「球は霊なり」
          一章 兵太郎少年、松山商業野球部へ
                 二章 麗しの島「台湾」へ
                 三章 北回帰線の街「嘉義」
                 四章 さらば松山商業野球部監督
                 五章 原住民族野球チーム「能高団」
                 六章 嘉義農林学校野球部
                 七章 甲子園大会へ
                 八章 「天下の嘉農」
                 九章 さらば台湾
                 終章 嘉義の街を訪ねて

 松山市の商家に生まれ、松山商業の野球部に入り、卒業後は監督になったこと、家族の相次ぐ不幸や経済的な理由などから台湾に渡ったこと、そして、嘉義農林学校から請われ、監督に就任後、ついに甲子園出場が実現し、無名校ながら決勝戦まで上りつめ準優勝するまでを丹念にたどっています。
 敗戦後、兵太郎は一家で引き揚げた後も地元・新田高校で野球の指導をしていますが、晩年は台湾で指導したかつての教え子たちがプロ野球で活躍する姿を見るのを楽しみにしていたことなどが、関係者への取材により、明らかにされています。
 近藤兵太郎とはどのような人物だったのか、「球は霊なり」という兵太郎の野球哲学は何に発しているのかといった人間像だけでなく、戦前の、近藤一家が過ごした日本統治下の台湾はどのような状況だったのか、台湾の歴史に通じた著者の豊富な知識によって、当時の時代再現がなされています。
 また、野球が日本の同化政策の一環として利用された事実の裏側で、日本人、台湾人、原住民族の混成チームを作り、内地の全国大会に行くことが、当時の日本でどのように見られていたのかという点もきちんと描かれています。近藤兵太郎が民族に関係なく、一人一人の選手の能力に合った指導を行い、台湾と台湾の人々を愛したことが伝わってきて、野球を題材とはしていますが、歴史読み物として読み応えのあるものになっています。

著者・古川勝三(ふるかわ かつみ)プロフィール
1944年、愛媛県宇和島市に生まれ、1967年、愛媛大学卒業後、教職の道を歩む。1980年、文部省海外派遣教師として、台湾省高雄日本人学校に3年間勤務。
帰国後、松山市立高浜中学校長などを経て、2004年に定年退職。

著書
『台湾の歩んだ道』、『台湾を愛した日本人』を台湾で出版
『台湾を愛した日本人 土木技師八田與一の生涯』
『日本人に知ってほしい「台湾の歴史」』ほか

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