近藤兵太郎の生涯をたどった評伝で、次のような構成となっています。
序章 顕彰碑「球は霊なり」
一章 兵太郎少年、松山商業野球部へ
二章 麗しの島「台湾」へ
三章 北回帰線の街「嘉義」
四章 さらば松山商業野球部監督
五章 原住民族野球チーム「能高団」
六章 嘉義農林学校野球部
七章 甲子園大会へ
八章 「天下の嘉農」
九章 さらば台湾
終章 嘉義の街を訪ねて
松山市の商家に生まれ、松山商業の野球部に入り、卒業後は監督になったこと、家族の相次ぐ不幸や経済的な理由などから台湾に渡ったこと、そして、嘉義農林学校から請われ、監督に就任後、ついに甲子園出場が実現し、無名校ながら決勝戦まで上りつめ準優勝するまでを丹念にたどっています。
敗戦後、兵太郎は一家で引き揚げた後も地元・新田高校で野球の指導をしていますが、晩年は台湾で指導したかつての教え子たちがプロ野球で活躍する姿を見るのを楽しみにしていたことなどが、関係者への取材により、明らかにされています。
近藤兵太郎とはどのような人物だったのか、「球は霊なり」という兵太郎の野球哲学は何に発しているのかといった人間像だけでなく、戦前の、近藤一家が過ごした日本統治下の台湾はどのような状況だったのか、台湾の歴史に通じた著者の豊富な知識によって、当時の時代再現がなされています。
また、野球が日本の同化政策の一環として利用された事実の裏側で、日本人、台湾人、原住民族の混成チームを作り、内地の全国大会に行くことが、当時の日本でどのように見られていたのかという点もきちんと描かれています。近藤兵太郎が民族に関係なく、一人一人の選手の能力に合った指導を行い、台湾と台湾の人々を愛したことが伝わってきて、野球を題材とはしていますが、歴史読み物として読み応えのあるものになっています。 |