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十円易者村上桂山(むらかみけいざん)・風狂の路上人生 |
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十円易者村上桂山(むらかみけいざん)・風狂の路上人生
狂わざれば生ける屍(しかばね)
田中修司
A5判・288P・ハードカバー
1,800円+税 |
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今からちょうど40年前の昭和51(1976)年11月18日、十円易者村上桂山が亡くなった。
明治38年、山口県熊毛郡(くまげぐん)平生町(ひらおちょう)佐賀に生まれた桂山は黄檗宗(おうばくしゅう)の禅僧で、京都宇治の大本山萬福寺で約3年半修行し、その後、中国地方の萩・鳥取・姫路・朝鮮の京城などを遍歴し、戦前の昭和14年、松山に来て街頭易を始めた。戦前は十銭手相屋さんと呼ばれ、昭和28年頃から見料は10円に定着、十円易者となった。
松山に在住した期間は38年。1日に100人から300人の客が桂山の前に列をつくり、その数は延べ人数200万人以上にのぼると試算される。
桂山は、悩みを持って訪れる人たちに、俳句でも川柳でもない“独特な文句”を紙片や、時には色紙に書いて渡した。
生きておれ食うことのみが人の道
くるしさはこのよにいのちあるしょうこ
みなうそよしゃかもこうしもきりすとも
これによってどれだけの人が救われ、励まされたことだろうか。これを「桂山語録」と言ったのは、桂山の書を評価し、亡き後も桂山顕彰に尽くした書家・鴻池(こうのいけ)楽齊(らくさい)だった。
桂山の数少ない理解者だったのが、この鴻池楽斎と、その実兄であった書家・小原六六庵(手島右卿の「独立書人団」に所属)である。六六庵は桂山の日々の生き方を「行乞」と看破し、桂山の禅僧たる本分に敬意を表した。また楽斎は、語録を書いたその書を、「見ていて自然に心が和むような作品がある。心の中のこだわりを捨て去って自由の境地に達することを心身脱落というが、桂山さんの書はすべてその脱落境から生まれた稀有の宝物である」と評した。
年中無休、箱車に座って客を待つ路上人生。家庭から離れて、起居した市中のねぐらは、電気も水道も便所さえないあばら小屋。妻子が待つ家に帰るのは年に一度、歳末の晦日のみだった。
桂山没後2年余の師走のある日、松山城下三番町2丁目の歩道、最晩年の桂山が毎夜座っていた場所に、忽然と「桂山地蔵」が出現した。彼を慕い、その人柄を愛した人たちの手によるものだと思われた。
今回、著者の取材により、来松以前は不明とされていた桂山の出自・足跡などが初めて明らかになった。著者は、桂山とは生前交流はなかったが、桂山亡き後、その生き方と語録に引かれていた。そして、年々桂山を知る人が少なくなり、忘れ去られようとしているのを惜しんで、今回出版に至ったものである。 |
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口絵は桂山の句画集で、色紙や半切に書かれた作品を紹介している。
第1章 少年時代 桂山の故郷・山口県熊毛郡平生町佐賀と父母兄弟のこと
第2章 修行遍歴時代 桂山の発心得度や修行遍歴の地と年代
第3章 松山時代 桂山の松山での生活と交流した周辺の人たちの紹介
第4章 「糞の味」考 桂山の残した句「でたらめも悟りも同じ糞の味」の考察
第5章 山頭火と桂山 昭和14(1939)年、桂山のいる松山にやってきた放浪の俳人山頭火。世間に交わらないアウトローの二人は同郷の山口県生まれで、ともに松山で没した二人の生き方と句を比較し、検証している。 |
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著者・田中修司紹介
昭和23(1948)年生まれ。愛媛県温泉郡重信町横河原(現東温市横河原)出身。
昭和41(1966)年、松山工業高等学校建築科卒。昭和50(1975)年、田中修司建築事務所開設。昭和 61(1986)年、八木亀太郎先生を偲ぶ会「三春会」発足。
本業である建築設計の傍ら郷土の先人の顕彰活動に参加、書籍の編集作業にも携わる。『寒来暑往』、松村正恒随筆集『老建築稼の歩んだ道』(1995)、追悼文集『大山澄太翁の思い出』(1995)、『歿後五十周年記念作品集・下村為山』(1999)。平成27(2015)年、宇和島伊達入部四百年祭事業の一環として、アトラス出版企画・制作の「うわじま伊達・偉人館」の展示会場設営工事の設計監理を担当。本書は、執筆にあたって4年にわたり各地を調査取材し、ようやく結実したものである。 |
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A5判 ハードカバー288ページ
著者 田中修司
発行日 平成28年11月18日
発行人 中村幸男
なお本誌は、アトラス出版発行人で、若いころ桂山の本を編集した経験があったことから、この本の出版を計画していた中村幸男の遺志(2016年3月急逝)を継いで発行した。そのため、発行人は中村幸男としている。 |
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