6月9日(日)
 我が家は今治の円光寺の檀家である。終戦後、父親が今治に住むようになって、北条の浅海(あさなみ)から墓を移した。墓の下の土を掘って、骨を残さないように壷に収めたという。
 宗派は、曹洞宗である。水軍である河野氏は、臨済宗などの禅宗を崇めた。そのため、河野氏のふるさとである河野郡(現松山市北条)の古刹は臨済宗や曹洞宗ばかりである。つまり、土井中の本名である田中の姓は、河野水軍に関わりがあると想像される。
 曹洞宗の考え方では、悟りを目指して座禅をするのではなく、座禅の姿そのものが悟りであると解く。「修証一如、只管打坐」といい、壁を向いて坐るのである。
座禅組み色即是空と耐え忍ぶ
6月10日(月)
 我が家の紋は「隅立四目」である。中学のとき、同級生から田中の「田」を図案化したものかと言われたこともある。「隅立四目」は、佐々木氏の代表的な紋であるため、なぜ田中の家紋として伝わっているのか不思議に思っていた。
 『えひめ名字の秘密』を著した折、多くの名字のルーツを調べた。その際、田中の家紋「隅立四目」の理由がわかった。『北条市誌』によると、宇和島の守護であった佐々木氏の一族が和田郷に移り住み「和田」と名のって浮穴郡の岩伽羅城主となった。その一部が分かれて風早郡に移動して田中の姓をつけたという。
 江戸時代、田中氏は風早郡萩原村、善応寺村、河原村で庄屋となっている。我が田中家はそのいずれかの分家のようだ。
 姉が目を患ったとき、医者から宇和島の風土病に症状が似ているといわれたという。姉は「宇和島に住んだことがないのにね」と笑っていたが、紋や伝承を考えると、この不思議が氷解したように思う。
田中家の歴史の変遷示す紋
6月11日(火)
 母の三回忌が近づいている。風の強い日に骨折し、そのまま病院で2年を過ごし、内臓が悪化して亡くなった。93歳だった。
 父は、年号が平成に変わったころ、自転車で転んで頭を打ち、それからしばらくして脳幹の異状により83歳であの世に旅立った。歳をとっても健康体で、山登りや趣味の山草栽培に精出していたのに、突然、死が訪れたのである。
 父の職業は縫製業で、婦人会の「会服」や運動着などをつくっていた。息子(=つまり私)が仕事を継がないといいだしたので、規模を縮小し、しまいにはふたりでほそぼそとミシンを踏んでいた。ただ、趣味は多彩で、「今治史談会」や「自然科学教室」「山草会」の世話をし、補導員も長く続けた。家の壁には、周年記念の際にいただいた何枚かの感謝状が未だに掲げられていた。額のところだけ、壁がもとの色のままに残っている。
 次の法要である母の七回忌は、父の二十五回忌が重なる年である。
法要が重なり父母の逢瀬なり
6月12日(水)
 父は、明治42年に北条浅海で生まれた。若い時はハイカラだったそうで、古い自然科学教室の冊子に、浅海で一番最初に自転車に乗ったとある。若い頃に胸を病んだが完治して結婚し、新天地の満州を目指した。一時は満州鉄道に就職していたものの、金が貯まると商売をはじめ、お手伝いを何人も雇うほど繁盛していたという。しかし、終戦が近づいたころに招集され、シベリアへ赴いた。
 終戦を迎えて捕虜になり、日本へ帰ったのは戦後2・3年経った頃になる。父は、このことをあまり語ろうとしなかった。シベリア抑留体験者で結成された「ヤゴダ会」の会報が届いていたのが、記憶の片隅に残っているのみである。「ヤゴダ」とは、シベリアに自生する野いちごの一種であり、山草栽培が好きだった父に似つかわしい名前だ。
 父は、シベリア抑留者へ出される慰労金や年金を貰おうとしなかったと、姉が思い出した。国に迷惑をかけたくないと言っていたという。生真面目で厳格、頑固な父を示すエピソードである。母が亡くなっての家の整理で、引揚者の提出書類が出てきた。確かに、申請しなかったようだ。
亡き父の記憶をたどる年となる
6月13日(木)
 母が亡くなり、家の整理をすると、さまざまなものが家や納戸にあふれていた。絵画や骨董に趣味はなかったのでお宝の類いはなかったが、昔の食器がたくさん出てきた。祭りの時に、多くの人が家に集まってきたことを思い出した。しかし、価値がありそうなものはほとんどない。たくさんの漆器は、手入れが悪くて漆が浮かび上がっている。ほとんどが役に立たないものばかりで、整理にひと月以上かかった。
 ゴミを処理場に持って行ったときのこと。漆器の椀を捨てていると、プラスチックと勘違いした職員がやってきて、「捨てる場所が違う」という。元地は木だというと、割って確かめ、職員は「本物の漆器はあんまり捨てられることがないんよ。ごめんな」といって去っていった。
 車に乗せてゴミを20回余り処理場に持って行き、ほとんどを捨ててしまった。何回もゴミ捨てをしたので、処理場の職員は私たち夫婦を産廃業者ではないかとの疑いの目が向けられていた。
思い出も断捨利とばかり捨てにけり
6月14日(金)
 家の整理で面白いものが見つかった。大正9年に作成された戸籍謄本である。枠と項目が印刷された和紙にペンで書かれ、当時の浅海村長高橋長重が認めたと筆で書かれている。これによると祖父は慶応2年生まれの千吉、祖母は大内氏から嫁いだウタ、曾祖父は源次であることがわかった。族稱の欄には黒い文字で「平民」と書かれている。北条は城下町ではないので「士」でも「卒」でもなく、田中家は「農民」だったというわけだ。
 他にも祖父千吉の従軍記章の賞状や15円と7円50銭の戦時貯蓄債券、差引残高126円55銭の残高がある国債貯金通帳が見つかった。また、父親は若い頃と戦後に巡った二冊の四国霊場納経帳も残していた。旅行好きだった父の土産物として、当時の絵はがきもたくさんあった。
 残されたわずかばかりのお金は、葬儀と法要で使い切った。もし、莫大な遺産が残されていれば、親族間でもめ事が起ったかもしれない。
貧しさは子どものためだと親が言い
6月15日(土)

 納骨のときである。突然、姪が母の骨が入った骨壷をわかるようにしてほしいと言い出した。「たくさんの骨壺があるから、母と父が隣りになるようにしてほしい。おばちゃんの隣りに置きたくない」というのである。すると、別の姪の旦那が「間違えないよう、壷の裏にマジックで名前を書いておけばいい」と言いだした。
 蓋の裏に名前が書かれた骨壺が墓の中に入るのを確認した末姉は「なんてやさしい娘だろう」と娘の言葉に満足しているかのようだ。
 姪は出産のため実家に戻った時、母を何度も訪れていた。その際、叔母からいじめられた話を聞いたようなのである。振り返れば、姪はお婆ちゃん子ではなかったはずである。その証拠に、母は姪の名前を思い出せないことが、幾度もあった。姪の行為に、パフォーマンスの香りが少しばかり漂うと考えるのは、不謹慎だろうか。
 仏教では、人は亡くなると「空」に帰すると考えられている。魂は極楽浄土に向かう。残された骨は「抜け殻」になり、墓や仏壇は、あの世にいる故人と通じるための場所である。骨壺を気にするのは現世への未練につながり、仏の教えにそむくことになる。

み仏の教えは千の風になり
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