7月14日(日)
 昨年、三池崇史監督で話題になった「十三人の刺客」は、1963年につくられた東映時代劇のリメイクだ。将軍の弟である暴君を暗殺するために、老中から命を受けた一群が、大名行列を襲うというもので、リーダーの島田新左衛門を片岡千恵蔵が演じている。千恵蔵は、明治36年生まれだから、当時60歳。しかし、若々しくてリアルな剣戟を演じている。
 千恵蔵は、市川右太衛門と並ぶ重役スターで、この頃は主演作がだんだんと減って行った時期に当たる。モノマネ芸人の桜井長一郎が、長谷川一夫や大河内伝次郎、山本富士子らとともに、千恵蔵を真似ていた。当たり役の遠山の金さんの「おぅ、おう」という呼び掛けや、時折声が裏返るところをデフォルメしていた。
 「十三人の刺客」脚本は池上金男で、のち池宮彰一郎として多くの小説を残した。当時は、様式化された時代劇への不満から、実録風の集団時代劇がつくられ、「十一人の侍」や「十七人の忍者」「忍者狩り」などの多くの傑作を残したのである。
千恵蔵のモノマネしても皆知らず
7月15日(月)
 「十三人の刺客」で千恵蔵と対峙するのが内田良平扮する鬼頭半兵衛だ。新左衛門の学友で、仕官を条件に暴君の殿に雇われるが、面子を重んじるバカ殿から対応策をことごとく否定される。本来なら、近衛十四郎あたりの役柄だが、千恵蔵の歳をカバーするためか、当時39歳の内田が演じている。千恵蔵に近い年齢に見えないのが難点だが、腕が立ち、頭の切れる不遇な侍を見事に演じている。
 内田は、劇団から映画界に入り、松竹、日活と渡り歩き、「十三人の刺客」上映の年に「ギャング同盟」で初主演を果たした。以後も、映画やテレビ、舞台で活躍している。
 この映画の10年ほどのちの1972年、内田が作詞した平田隆夫とセルスターズの「ハチのムサシは死んだのさ」が大ヒットした。内田は、1984年、60歳の時、演劇の巡業先で心筋梗塞のために亡くなった。
俳優のハチのムサシは死んだのさ
7月16日(火)
 2代目水戸黄門で知られる西村晃は、「曲者」ともいうべき俳優である。山本薩夫「真空地帯」の初年兵をいじめる軍曹、黒澤明「悪い奴ほどよく眠る」の小心者の官吏など、映画ごとに異なる顔を見せる。
 東映時代劇では剣豪役が多く、「七人の侍」の宮口精二のような役柄が多い。「十三人の刺客」では、剣に一途な役柄だが、死ぬ時に臆病な一面を見せ、複雑な心理を印象づける。「十一人の侍」では、襲撃の話を聞いて加担する浪人を演じている。
 西村晃の父親は、マリモ研究の科学者・西村真琴である。日本初のロボットである「学天則」を製作している。映画「帝都物語」では、父親に扮して、ロボットを駆使して加藤の魔の手から地下鉄を守るという役を嬉々として演じている。
 また、当時の東映集団時代劇では、最後の黄門様の里見浩太朗の若き日を見ることができる。
クセのある役者の裔が黄門か
7月17日(水)
 「十三人の刺客」で、将軍の弟としての権威をかさに着る明石藩主を演じたのが菅貫太郎だ。テレビ時代劇の悪役として活躍したので、その顔を覚えている人も多いだろう。
 異常性や酷薄性を感じさせるのは、目つきと、薄い唇にある。オーバーアクションの演技だが、こんな人物がリーダーだったらどうしようと、観客の不安を一身に集めていた。ただ、この映画の好演で、残虐を好み、異常な性格のバカ殿としてのステレオタイプを演じることが多くなったのは、不幸だったのか幸いだったのか、よくわからない。
 自分の経験からすると、異常な人物というのは、とても愛想がいい。表面だけを見ていれば、好人物だと騙されてしまう。しかも、息を吐くように嘘をつく。倫理観のない人物がリーダーになると、うまくいけば自分の功績、失敗すれば人のせいにされてしまう。そのような人物は、身の回りに潜んでいるので、ご注意を。
バカ殿のステレオタイプを創造し
7月18日(木)

 松方弘樹や目黒祐樹の父が近衛十四郎だ。剣戟スタートして各社で活躍したが、シベリアに抑留されて、銀幕への復帰が遅れた。1960年に東映入りし、主役となった。テレビ時代劇「素浪人月影兵庫」での品川隆二扮する焼津の半二とのユーモラスな掛け合いを覚えている人もいるかもしれない。
 長男の松方弘樹も同時期に主演となり、主演作の「柳生武芸帳」シリーズで共演を果たしている。演じたのはほとんどが剣に生きる豪傑で、迫力のある立ち回りが印象に残る。松山が舞台の「忍者狩り」では、松山藩蒲生家を取り潰そうとする幕府の陰謀に立ち向かうために雇われた外様の残党のリーダーを演じている。
 息子たちの顔は、どちらも父親によく似ている。近衛の趣味は釣りだったそうで、これも息子が受け継いでいる。

若き日は息子の顔と生き写し
7月19日(金)
 大友柳太朗は、山口県出身だが、松山中学に通った。中学校卒業後、新国劇に入り、辰巳柳太郎に師事。昭和10年に新興キネマ『青空浪士』で主演デビューし、時代劇を中心に活躍した。独特の台詞回しが特徴で、豪放磊落な役柄を演じた。
 昭和28年に主演した『怪傑黒頭巾』が大ヒットし、子どもたちの人気者となる。『丹下左膳』『むっつり右門』などで主役を張る。剣の扱いがうまく、殺陣の鮮やかさに定評がある。
 最後の出演は伊丹十三監督の『タンポポ』。ラーメン指南をする役をつとめた。昭和60年(1985)9月27日に、自宅マンションから飛び降り自殺。老人性痴呆症にかかったと悩んでいたという。
 真面目な人柄で、松山中学で同級生だった俳人・石田波郷と親交を結んでいた。昭和3年、中学4年のときに波郷は俳句を愛媛新報や海南新聞俳壇に投句したが、大友がそれを勧めたという。
 大友は文学少年で、「壷」という同人誌を発行したこともあった。俳句や和歌をつくり「如煙」「悠々」と号したという。
豪快な笑いにどこか伊予の味
6月20日(土)

 「十三人の刺客」で、里見浩太朗の面倒を見ている芸者おえんを演じたのは丘さとみである。大友柳太朗主演の「血と砂の血斗」では、もと武家の娘で野武士に襲われて孤独の身となり、遊女となった奈々を演じている。
 高校生のときの1953年、ミス・シンデレラとなり、1955年に東映ニューフェイス2期生として芸能界入りし、「東映城のお姫様」と呼ばれている。30歳を前に、次第にふくよかになり、お姫様役を振られることは少なくなったが、愛嬌のある大きな目と笑顔はそのままであった。
 「血と砂の血斗」では、二重あごが目立つが、演技に健闘。野武士に襲われる村を武士が救うという「七人の侍」に似たストーリーを、東映らしい映画にするための色を添えている。
 この映画のタイトルの「砂」は、砂丘の近くに村があることが示されるものの、ストーリーで関係するわけではない。エレキギターを使った音楽や残酷描写に、マカロニウエスタンの影響が顕著なため、「血」の文字を使ったのだろうか? 娯楽映画として楽しめる一編である。

お姫様年を重ねて汚れ役
アトラス出版 〒790-0023 愛媛県松山市末広町18-8
TEL 089-932-8131 FAX 089-932-8131