岩躑躅山

[所在地]高知県土佐郡土佐町

[登山日]2000年10月9日

[参加数]3人

[概要]早明浦ダム湖南岸に位置する1000m峰。無名の山であったが、ネイチャ−ハントに指定されてからは登山者も多くなった。山名もごく単純ではあるが、貞享元年(1684年)編纂の「御留山帳添目録」には、既にその名が見えている。この山の最大の特徴は、なんといっても外輪山の様なその山頂尾根にある。中央部はカルデラのように陥没し西側が一部崩れた格好となっている。火山とはあまり関係のない第三紀層の浸食台地ではあるが、風変わりな造形の妙を感じさせる。三角点も尾根の最高地点ではないため、地図がなければとんでもない「迷い山」となってしまうので注意が必要である。山頂は東側に展望が開け、ダム湖を挟んで鎌滝山の勇姿を遠望することができる。

[コースタイム]

  下部登山口(9:10)―林道終点(9:30)・・迷う・・頂上(11:07)

[登山手記]簡単な2山ピ−クハントと考えた油断と侮りが、今回の登山をトラブル続出の悔恨ハイクに変えてしまいました。先月と同じ道路を土佐小松まで進み、瀬戸川沿いの七尾橋を渡って中江産業の作業道に入ります。ガイドブックでは、山頂直下まで林道を辿れば良いはずですが、すぐに鎖のゲ−トが行く手を遮りました。周囲はガスッていてよくわかりません。「もう山上に近いのかな〜?まだ林道が長く続いているはずだがな〜?まあ、大した山でもないし、少し歩けばすぐ頂上だろう。」と車を捨てて歩き始めました。すぐ、2万5千分図を車中に忘れたことに気づいたのですが、「まあ、大丈夫だろう。」と車まで戻るのが億劫になってそのまま進んでいきました。いままで地図を携行しないことは一度もなかったのに、どうして??・・油断以外の何物でもありません。すぐあと「山は恐い」ということを痛感させられることとなります。林道を2回ほど回り込むと左手に指導標が見えます。「あった、あった。ここから30分だよ。」ガイドブックで、鎖ゲ−ト=上登山口という固定観念が出来上がっていたのです。実は、さきほどの鎖は下登山口のずっと手前で、ガイドブックとは違っていたのです。多分、登山者が多くなったので中江産業が林道への進入を全面禁止してしまったのでしょう。そうとは知らず、意気揚々と心細い山道に入って暗い植林帯を喘ぎながら登って行きます。20分ほどで登り切って尾根上に到着。林道の終点とおぼしき広場があり、その右側に尾根に沿って付けられたピンク色のテ−プが認められます。道もしっかりしており、何の疑いもなく南に向かってこれを登っていきました。ダラダラと100mほど登ると一つのピ−クに到着。期待していた頂上標識はありません。ここで道は二つに分かれているようです。南にはガスの間にもう一つのピ−クが見え隠れしています。一旦下ってそこまで行きましたが、やはり何もありません。すぐに林道に飛び出してしまいました。??最初のピ−クに戻って、もう一つの道を進みます。10分ほど平坦な尾根を進んで行くと、またまた林道に降り立ってしまいました???ガイドブックも地図もないので自分の位置がわからなくなりつつあります。ガスは晴れつつあるのですが、尾根が輪状に取り巻いていて際だったピ−クもなく、このまま進んでいいのかどうか自信がありません。地図もなにも持ってこなかったことに対する非難轟々の中、とにかく最初の林道終点まで引き返すことを余儀なくさせられました。実は頂上よりずっと南に位置する1109m峰付近をウロウロしていたのです。このピ−クを回り込むように林道が延びているため、どちらに進んでも林道に出てしまったわけです。これで1時間以上のタイムロス。絶望的な気分で、仕方なく最初の林道終点から林道をトボトボと辿っていくとほどなく右手の林に「登山道」の小さな標識(多分、高松軽登山部のものでしょう。心から感謝いたします)を発見。これに従って少し登ると再び林道に飛び出し、少し左手に進んだ処に上登山口の指導標を発見。一気にスズタケ生い茂る斜面を駆け上がって、11時7分、やっとネイチャ−ハント標のある山頂に辿り着きました。眼下には早明浦ダム湖が美しく光っていました。証拠写真だけ撮って、すぐ下山開始。林道終点部の標識に「林道を行くべし!」とマジックで書き入れておきました。南に行かないようくれぐれもご注意ください。

西門山(にしかどや)

[所在地]高知県土佐郡土佐町、大川村

[概要]稲叢山から東方に峰続きで、稲村トンネル出口の登山路から縦走路伝いに到達できる。往古、稲叢山を含めた一帯の山は「一の谷山」と呼ばれ、七里回りの大深山で、不入山の霊山であった。その総山鎮めの神として崇められる「高峰神社」の由来記(三宝山御由来記)には次のように記されている。「・・往古、イザナギ、イザナミの二神、四国を産むに出で立ち、座したる所、東御門と云い西御門と云ふ、今は東門山、西門山と云ふ・・」。記紀にそのような記載はないが、わが四国の天地創造に纏わる神代からの由緒を持つ貴重な山で、四国人なら一度は尋ねて来てほしい原点の場所である。

[コ−スタイム]

 稲村トンネル登山口(14:15)―標識(15:10)

[登山手記]岩躑躅山で、とんだ時間を浪費してしまったため、あわてて出発。当初、黒丸から稲村ダム方面に行く予定でしたが、トラックの運転手が、路肩の崩壊のため行けないことを親切に教えてくれたので、急遽、とって返し大橋ダムからの峰越林道(林道一の谷脇の山線)を経由することに変更しました。この峰越林道、数年前に通ったときは、ひどいダ−ティ路の上、春先の小さな崩壊が至るところにあって、石をどけながら命からがら通り抜けた苦い思い出があるため緊張しましたが、なんと、今は稲村トンネルまで完全舗装され超快適です!標高1350mまで、向かいの冠、平家平連峰を見ながら一気に駆け登る爽快さはまず四国一ではないでしょうか?景色に見とれて正面衝突しないよう対向車には充分注意してください。トンネルを抜けた所の広場が登山口です。指導標、赤テ−プも賑やかで、まず迷うような場所はありませんが、途中、スズタケが生い茂り、北側が急傾斜のうえ、一部、崩壊した斜面もあるので慎重に進んでください。かの「三宝山御由来記」には「・・そもそも一の谷山の往古の名は伊予の二名州の国の御柱山と云、又、国の正中山(まなかやま)とも云ふ、・・此の山の頂上に大山祇神の御誕生所と申す場所有りて・・西門屋と申す岩屋に祭りて日本第一の本宮七山大社大山祇神と奉唱す・・」と土佐国でありながら、伊予国およびわれらの大山祇神との深い関わりを伝え、まさに四国の原点ではないでしょうか。四国の名山は数々あれど、ここまで明確な四国誕生の伝承を掲げる山はそうないと思います。大切にしてゆきたいものです・・などと話しながら小ピ−クを越えようとしたとき、K女史が足を滑らせて転倒。その拍子に右の肩関節を脱臼してしまったのです。幸い亜脱臼のため、何とか歩行は出来るとのことですが、右手は全く使用不能。できるだけ早く病院で整復しないと関節炎も併発しかねないので、一刻も早く下山しなければならなくなりました。完全に脱臼したら気絶してしまうと聞いた途端、こちらの方が気絶してしまいそうでした。ネイチャ−ハント標識で記念撮影だけして、すぐに引き返しました。ちなみに本当の頂上はさらに尾根を10分ほど進んだスズタケの中ですが、さすがに諦めざるを得ませんでした。縦走路とはいいながら、片腕で引き返すのはやはり大変で、二人でお尻を引き上げたり足を確保したりして4時15分、なんとか登山口まで還ってきました。そのまま労災病院に向けて大橋ダム付近まで下山したとき、急に右腕が使えるようになったとK女史が叫びました。車の振動が良かったのか?自然整復できたみたいでホッとするやら、泣きながら喜びあうやら・・。受診は明日にすることにして、ひとまず「木の香温泉」でゆっくりと入浴しながら、今日の多難だった登山を反省しながら振り返りました。ヤレヤレ!参った参った!