京柱峠〜綱附森〜天狗塚

[所在地]徳島県三好郡東祖谷山村、高知県香美郡物部村

[登山日]2000年11月3〜4日

[参加数]4人

[概要]剣山系の最西部を彩る素晴らしい縦走路である。以前は綱附森から矢筈峠間は猛烈なブッシュの上、水場も無く、猛者連以外はあまり足を踏み入れることのない人気のなさであったが、今はすべて整備され誰でもテント一泊で完走することができる。徳島山の会の西内重太郎氏も「・・縦走コ−ス上からの展望はかなり良く、変わった角度から剣山山系を眺められるという意味で一度は歩いてみる必要がある。」と述べられている(改訂版 阿波の山)。土佐矢筈山、綱附森、天狗塚すべてのピ−クからの表銀座の眺めは天下一品で、それを終始、見ながら歩ける極上の道である。剣山から天狗塚までの縦走を完了した岳人にとっては、懐かしさがこみ上げると共に、剣山系の素晴らしさをしみじみと再認識できる静かな山旅となるであろう。(写真:綱附森山頂にて)

[コースタイム] 

 11/3 京柱峠(9:00)―小檜曽山(11:05)・・昼食・・土佐矢筈山(12:50)

    ―矢筈峠(13:40)―綱附森登山口(14:00)―綱附森(16:45)・・泊

 11/4 起床(6:00)―発(8:25)―堂床分岐(9:10)―地蔵頭(10:45)

    ―久保分岐(11:00)・・昼食・・天狗塚(12:15)―久保バス停(15:20)

[登山手記]今回の登山は、会員の「W氏(通称 ショーちゃん)御結婚祝福記念山行」と銘打って充実した縦走コ−スとして選択、計画しました。成功すれば、「山の会」として分割しながらも剣山から京柱峠まで全縦走を達成することにもなり、永く記念とすることが出来るからです。前日まで降り続いた無常の大雨も朝方までには上がり、予定通り二台の車で出発。国道32号線に出たところで「土砂崩れ!大歩危付近通行止め」の表示に一瞬青ざめましたが、祖谷口から旧道に入り、長い気遣いのいるクネクネ道を注意しながら進んで、なんとか京上に到着。久保のバス停付近に一台デポした後、とって返して京柱峠まで狭い439号線を遡っていきます。距離はあまりないもののカ−ブの連続のため、とても遠く感じます。9時、やっと峠着。3時間余りの運転に全員バテ気味、それでも黙々と出発準備を始めている時、突然、携帯電話が鳴りました。それはK君の奥さんからで「夕食のモツ鍋のモツを冷蔵庫に忘れている。」と・・・・??!!!もう大パニックです。ヘナヘナとその場に座り込んでしまいました。しかし、もうどうすることもできません。気を取り直して善後策を協議、無人の「峠の茶屋」で焼き肉のタレだけを買って、適当に”肉なし鍋”を作ることにして、とにかく出発しました。それにしても京柱峠はゆったりとしたいい峠で、昔、弘法大師が「京にも上るほど遠い。」と言われたことに由来するそうですが、天保十二年に起こった「祖谷百姓一揆」の首謀者三名の首級を晒した悲しい場所でもあります。それやこれやで最初から悲愴な気分になりながら小檜曽山への立派な道を辿り始めました。林道を少し進んだところの標識から雑木林の一本道を登って行きます。あいにくガスの中で視界はゼロ。結構、急登の連続の上、荷物の重さも加わって次第に息が切れてきます。一カ所、展望所らしき切り開きがありますが、なにも見えずそのまま通過。傾斜が次第に緩くなるところに分岐があって「モミの自然林」を選択。幽玄な雰囲気を漂わせる林の中をゆっくりとした速度で進んで行くと、小さな権現様の祠があり、登山の無事を祈ってゆきました。峠からの標高差400mを登り切ると、突然、広大な笹原が眼前に開けました。まだ、ガスは深く風も強いため何も見えませんが、空は次第に明るくなっているようです。期待しながら笹の小径を辿っていくと、ほどなく小檜曽山への分岐標識が目に入りました。縦走路から少しはずれていますが、ネイチャーハント点数稼ぎのため、空荷でピストンをかけます。数分であっけなく頂上標識(1525m)に到着。なにも見えないので写真だけ撮ってすぐ引き返しました。分岐まで戻り矢筈山に向かって縦走開始。少し行った縦走路上のピーク(1550m)にも「小檜曽山」と書かれています??どちらが本当のピ−クなのでしょうか?帰宅してから手持ちの本を調べてみると下のようになりました。

 

1550mピーク

1525mピーク

「四国山脈」(昭和34年)

記載なし

通称「笹」という。

「阿波の山」(昭和39年)

記載なし

二等三角点一帯を「笹」と呼ぶ。

「改訂版 阿波の山」(昭和46年)

1525mの一つ北のピ−ク一帯を「笹」と呼ぶ。

記載なし

「土佐の森林」(平成2年)

「笹」

記載なし

「高知の登山&ハイキング」(平成6年)

「小檜曽山」

記載なし

「高知県の山」(平成6年)

「小檜曽山」

「笹山」

「中国・四国の山(平成5年)

「小檜曽山」

「笹山」

「AG四国の山」(平成12年)

「旧小檜曽山」

「小檜曽山」

「ネイチャーハントガイドブック」(平成12年)

記載なし

「小檜曽山」または俗称として「笹」「京柱山」

「四国百名山」(平成12年)

「小檜曽山標識」、以前は「笹 」と記憶する。

「小檜曽山」

 う〜ん?いったい何なのでしょうか?混乱の極みですが、何となく1550mピ−クが「小檜曽山」、1525mピ−クが「笹」というのが妥当ではないでしょうか?そうすれば明賀から西峰への峠を「笹越」と呼ぶのが納得できるのですが・・。しかし、1550mピークで記念撮影してしまった場合、ネイチャーハントの「檜板」をもらえるかどうかだけが気がかりです・・。それにつけても、ここから土佐矢筈山までは「笹」の名の通り、素晴らしい笹原が続いています。手入れも行き届いていてトラクターでも通行できそうな縦走路の刈り込みは圧巻です。息のあがるような急坂も無く、のんびりと矢筈山まで空中漫歩が楽しめます。1541m峰付近で”やきそば”の昼食。この頃からようやくガスが切れ、東に矢筈山のピークを認めることができました。南斜面は700m一気に落ち込んで、その底に「明賀」集落が深く沈んでいるのが特に印象的でした。矢筈山山頂付近は、さすがに多くの登山者が行き来していて最近の人気の程が伺えます。松村 規氏は「西の瓶ヶ森、東の三嶺に匹敵する草原の美」と絶賛されています(物部村志、四国山脈)。その通りだと思います。

ハイカ−と挨拶を交わしつつ12時50分、土佐矢筈山着。東は以外にも雲上の視界が開け、天狗塚や三嶺が神々しく聳えたっています。今から辿る綱附森も、遠くその特徴ある笹の頂を覗かせています。感動で思わず大きな声を出して、周囲の人々を驚かしてしまいました。K君曰く「ずっと向こうの笹の山が綱附森ですか?」「そうだよ。」「手前に尾根が二つありますね。今日中に行けるんですかネ?・・・ずっとずっと向こうの三角山が天狗塚ですか?」「そうだよ。」「明日中に行けるんですかネ?」と心配そうに何度も聞いて来るのが滑稽でしたが、確かに地図に比べて遠く感じたのは事実です。しかし前進するしかありません。記念撮影もそこそこに矢筈峠に向かって下降を開始しました。笹原から、しっかりと整備された林の中を、落葉を踏みしめながら下っていきます。晩秋の山旅の歓びを心の底から感じることのできるひとときです。標高差400mほどを50分で快適に下りきって「矢筈峠」着。ここは、別名「アリラン峠」としても有名で、標識にその由来が詳しく記されています。ここに改めて記するまでもないでしょう。名前のインパクトの強さは徳島東部の「ヤレヤレ峠」、「十二弟子峠」と双璧をなすものです。山の中の林道としてはとても立派で、ここを起点に、日帰りで矢筈山と綱附森の2山往復登山をすることも充分可能です。トイレなども整備されています。

少々休憩の後、トイレの前を通り過ぎ「東笹林道」方面に進み、ゲート手前の北側に綱附森登山口を見つけました。最初からアキレス腱が軋るほどの急登です。ここから天狗塚までは、ほぼ県境に沿って縦走路が整備されています。以前のブッシュの面影はありませんが、高低差150mの直登は、さすがに登り返しだけにキツく次第にペースが落ちてきます。しかし、登るにつれて左手に土佐矢筈山のピークが散見され心の慰めとなります。山上の人影も点々と認識することができました。やっとのことで登り切ると、あとは稜線の縦走路となります。以前は鬱蒼とした原始林だったと伝えられていますが、今は全て伐採され平凡な雑木林となっています。尾根の東側に回り込むと風景が一変します。ずいぶんと間近になった綱附森。スズタケの中を快適な道が整備され、非のうちどころもありません。親子連れが一組、足早に通り過ぎていきました。その足音も遠ざかってしまうと、あとはどこまでも静寂の世界です。笹の中でのんびりと休憩していきました。笹原を下りきると山頂まで標高差300mをじっくりと登り返してゆきます。さすがに私とW氏はヘバッてしまい、10歩歩く度に立ち止まるという情けなさです。山頂はすぐそこに見えるのですが、なかなか辿り着けません。K君とH女史は、そんな我々を尻目に小走りに登っていってしまいました。呼吸を整えながら周囲を見渡すと、いつの間にかガスも消え、大栃の永瀬ダムが夕映えに輝いています。西は茜の雲海が輝き、石鎚とおぼしき山影も確認できました。・・感激に包まれて頂上です。東には白髪山を隔てて、昨年登った石立山の奇怪な姿も間近に望まれ360度の大展望を心ゆくまで楽しみました。・・しばらく佇んでいると、空は橙から紅、茜、紫へと変わっていきます。三嶺から天狗塚の大稜線も「滝雲」に包まれ実に神秘的で時間がたつのも忘れてしまいました。フと気がつくと夕闇がすぐそこに迫っています。あたふたと設営してテントの中にもぐり込みました。夕食はH女史特製「肉なし鍋」。肉はなくともみんなで食べれば、何物にも勝るご馳走です。楽しく賑やかなひととき。就寝前に外に出ると、灯台の遠い灯びが昨年の石立山から見たときのままに静かに瞬いていました。常夜灯にはクリルライトを初めて使用。ほのかな緑の光は暗闇の恐怖を和らげてくれて好評でした。「綱附森の由来は、昔、綱附森周囲は海で、そこに浮かんでいる舟を綱で繋いだことによるそうだよ。」「へ〜。じゃ、ノアの箱船と同じだね。四国の”アララト山”と呼ぶことにしよう。」・・などと本当の四方山話をしながら静かに夢路に誘われていきました。・・

翌朝は荘厳なご来光とともに起床です。写真のご来光の左手の山が石立山です。西には石鎚山系の山並みが全て見渡され、四国の全ての山々に囲まれて至福のひとときを過ごしました。この一瞬のために苦労して登ってきたと言っても過言ではありません。綱附森と一緒にゆっくりと朝食を戴いてから撤収、「山よ、永遠なれ!」と山頂を一瞥して一路、天狗塚へと向かいました。しばらくは広大な笹原をゆるやかに下っていきます。このあたりは「ブルンベ平」と呼ばれています。ブルンベとは意味深に聞こえますが、じつは九州の島原地方の方言で「ギンバエ」のことです。同地方出身の高知大学山岳部員が、ここを過ぎる時、あまりのギンバエの多さに「ブルンベ!」と叫んだことに由来するそうです(「高知の森林」所載)。東側の登山口近くの「さおりが原」も南沙織ファンの高知大学WV部員による命名だそうで、イゴッソー的命名で、なかなか味がありますよネ。今では市民権を得ているだけに驚きです。私が銅山峰付近を仮に「小百合が原」(吉永小百合による・・ちょっと古いか!?)と名付けても絶対、市民権などは得られないでしょう・・。笹原の踏み跡はしっかりしていますが、これまでの縦走路のように刈り込みがないため、朝露で下半身をびしょぬれにしながら下りきって「堂床分岐」9時10分着。40分余りで天狗峠(この名前はあまり好きになれませんネ)まで三分の二を踏破したことになります。しかし正念場はこれから。標高差300mの登りは、疲れた体にかなりこたえました。尾根が次第に狭まり、左手には天狗塚が神々しく輝いています。久保分岐付近を歩く登山者の姿も認められ、あとワンピッチと頑張ります。天狗峠の手前に立ちはだかる「地蔵の頭」。地図では、これを捲いているようなので期待していましたが、何のことはない!ピークまで直登の連続です。傾斜もきつく、一部ロープも固定され重い体を引き上げていくしかありません。最後の最後になって一番、鍛えられましたが、両側は深く切れ落ち、素晴らしい高度感のスリルを味わうことが出来ました。ようやくピーク。以前はお地蔵様が祭られていたそうですが、それらしいものは見あたりません。そして、あっけなく三嶺への縦走路に飛び出しました。10時50分。この地点で、私たちは剣山から京柱峠までの縦走を完了したことになり、しばらく三叉路に佇んで感慨に耽りました。

久保分岐でギョーザ、ピザ、ピラフの豪勢な昼食の後、慣れた道を天狗塚に向かいます。今回の縦走の最終目的地。あいにくガスが多く遠目は利きませんが、綱附森への稜線ははっきりと目で辿ることができます。広大な笹原の果てに、すでに遙かとなった綱附森が名残惜しそうに手を振っていました。歓びに包まれて12時15分、天狗塚着。いつ来ても風が強く、凛として聳えたつ孤高の頂上です。4人がっちりと握手を交わして完登を喜び合いました。そして、西に向かって「ショーちゃ〜ん、めぐみさ〜ん!結婚おめでと〜!いつまでもお幸せにね〜!!。」と声の限り叫んで、今回の登山の〆としました。風が強いので、声は新居浜の奥さんのところまで届いたことでしょう・・。本当におめでとうございます。身を固めても、これからも一緒に楽しい登山をお願いいたします!

 あとは久保まで一直線、H女史がしつこく奥さんのことをW氏に聞きまくりながら、満ち足りた気持ちで足の痛みもさほど気にならず、長い道を下っていきました。