[所在地]愛媛県西条市、高知県土佐郡本川村
[登山日]2002年3月3日
[参加数]4人
[概要]西条市の南に突兀と聳える四国アルプス。その中にあって岩稜を剥き出し、ひときわ厳しく聳えたっているのが寒風山である。天保年間に編纂された「西条誌」にも「・・笹が峰近辺にて名ある山、西北に沓掛あり。申酉の位に、天が峠、寒風等あり、皆、高峻なりといえども、笹が峰よりは下臨すべし。」と記載がある。古くは「さむかぜ」と呼ばれ、その名の通り、桑瀬峠付近は風の通り道で、冬場はとくに凍てつく烈風が吹き荒れる。そのおかげで、寒風山周辺の霧氷、樹氷の美しさは連峰随一の誉れが高く、アプローチの容易さも加わって四季を通じ、地元の登山愛好家が慈しむ「おらが山」である。高知新聞社の「四国百山」で巻頭を飾っているのも印象深いものがある。笹ヶ峰、瓶ヶ森など「大和級」巨艦が周囲をとりまく中で、独り小粒でキリリと引き締まった姿は、旗艦「長門」の勇姿にも似て凛々しく実に頼もしい。私たち「山の会」仲間の絆を固めた”こころの山”でもある。今回は、その逸話を述べてみたい。
[コースタイム]
寒風山トンネル登山口(8:40)―桑瀬峠(9:30)―頂上(11:00)
・・送別の宴・・―登山口(14:00)
[登山手記]今、マーラーの「大地の歌」を聴きながら、この文章を書いています。別に気取っている訳ではありませんが、若いときから、別れの曲として自分のこころに通じるものが、この曲には強く感じられるのです。そんな気分になったのは、私たち「山の会」のリーダーであるW氏が、転勤で愛媛を離れることになったからです。急な話でショックを受けましたが如何ともしがたく、去る3月3日、思い出の寒風山に、思い出の4人で送別登山をしてきました。10年前、山について何も知らなかった私たち3人に、登山のABCを教えてくれたW氏。そしていかに山が素晴らしいか、北アルプスの経験を踏まえて熱く語ってくれたのも昨日のことのように思い出されます。しかし、なんと言っても1994年1月29日の寒風山登山は、忘れがたい教訓として4人のこころに深く刻まれています。
前年の秋、W氏に石鎚山、西赤石山を案内してもらったので、今度は霧氷がみてみたい、という希望もあって軽い気持ちで計画されたのが寒風山登山でした。大雪警報が出ているのも知らず4人は、ルンルン気分で国道194号線を辿り始めました。途中、下津池でチェーンを巻き、当時のわが愛車シビックでなんとか登山口に到着。これはその時の写真です。左からK女史、W氏、私、H女史です。まともな冬装備をしているのはW氏だけ。私の恰好を見て下さい!ジャージの上下に、ゴルフ用のウィンドブレーカーを羽織っただけ。靴は単なるスニーカー。手袋は街角用の黒の革製です。肩にかけているのは遠足用の金太郎水筒。さらに驚きは左手に持っているポリタンクでしょう。弁当を食べるときの飲料用で、これを持って山頂まで行くつもりだったのですから、もう正気の沙汰とは思えません。さすがにW氏にたしなめられて車に置いていきましたが、戻ってくると完全に凍ってしまっていたのには言葉もありませんでした。
登山開始とともに雪は激しく降り始めます。新雪なので滑ることはなく、初めての雪山の珍しさも加わって寒さもそんなに感じなかったのを覚えています。桑瀬峠に至ると気象は一変しました。凄まじい烈風。身の置き所もないほどの寒さです。おまけに私は転んだ拍子に手袋を濡らしてしまいました。すぐに手の感覚がなくなります。革の手袋など何の役にも立ちません。手袋を脱ぎ捨てジャージのポケットに手を突っ込みますが冷たさは募るばかりです。指先は次第に黒ずんできました。これを見たW氏は、すぐに自分のハンガロテックスを貸してくれたのですが、その暖かさは本当に新鮮な驚きでした。濡れていても全然冷たくない。どうしてだろう?この謎は今も続いています。・・・普通ならここで撤退するところですが、無謀というか、若気の至りというか、さらに寒風山に向けて進んでいったのでした。斜面の北側に回り込むと風はますます激しく、頬がちぎれるほどの寒さです。私たちはここを「ほっぺたちぎれ坂」と名付けました。ちなみに[概要]に掲げた写真は、「ほっぺたちぎれ坂」から見る寒風山の勇姿です。しかし、当時、視界はまったくありませんでした。坂を少し登ったところで、雪はますます激しく、W氏が偵察に出かけ、岩場があって今日はもう無理だろうということでやっと前進を中止しました。ここでランチタイム。せっかくのおにぎりも凍りついてほとんど味わうことができませんでした。帰りはW氏に続いてシリセードの練習。キャッキャッとはしゃぎながら、何の不安もなく子供のように滑り降りてきました。14時、ようやく登山口に帰還してビックリ。車がない!!・・いや、雪に埋まってしまっているのです。2時間かけて必死に雪かきして、やっとのことでトンネルの中まで移動させましたが、すぐに絶望的状態となりました。西条側の出口が半分、斜面からなだれた雪で埋まっていたからです。車を捨てて歩いて下りるしかない!初めて事の重大さに気づいて愕然です。今日中に西条まで帰れることはほとんど不可能。当時は携帯電話や無線もなく、「早く電話をかけて家族に連絡しなければ・・・。」と女性軍はかなり焦り始めました。ここでじっとしていても仕方がない。とにかく歩いて行けるところまで行こう!と国道を歩き始めました。国道とはいえ膝までのラッセルの連続はかなりこたえます。次第に足が重たくなってきました。辺りは暗くなりはじめます。懐中電灯やヘッドランプの持参もなく、雪明かりだけで進んでいきます。時折り青白いガスの切れ目に見える西条市の灯。ものすごく近く見えてすぐに行けそうな錯覚にとらわれます。しかし歩いても歩いても家はなく同じ景色の繰り返し、寒さも募って、ものを言う元気も無くなってきました。すでに辺りは漆黒の闇。そして恐ろしいほどの静寂・・・精神的にも限界が近づいています。女性軍が「もう私、ダメ・・」と座り込んでしまったらどうしよう、自分一人だけでも駆け下って急いで救助を求めよう、とW氏は覚悟したといいます。それでも、なんとか21時過ぎ、やっとの事で川来須まで下山。道の向こうに新寒風山トンネル事務所の明かりが見えました。幽霊のように近づいて玄関を開け「すみませんが、助けて下さい・・。」と言うが早いか倒れるように座り込んでしまったのでした。
多くの工事関係の方が出てこられ、すぐに暖かいお風呂にいれていただき、そしてカレーライスを食べさせていただきました。あのカレーの味は、今も忘れることはできません。厚かましくお代わりをして底までさらえてしまいました。家族にも連絡がつきホッと一安心。さらにストーブ付きの暖かい部屋をあてがわれ、ふかふかの布団で朝までゆっくりと寝ることができました。本当に親切にしていただきお礼の言いようもなく、今はもう更地になってしまいましたが、命の恩人である事務所を思い出すたびに涙がにじんでくるのです。翌朝、K女史の旦那様が迎えに来てくれて何とか家まで帰り着くことができましたが、車をトンネルに放置した廉で、後で警察に大目玉をくらったことは言うまでもありません・・・でも、生きて帰れて本当によかった!
「そんな私たちを、この寒風山はジッとみていたのだろうな。」と感慨に浸りつつ、当時の思い出話に花を咲かせながら今日はにぎやかに登っていきます。遭難騒動という苦い経験をともにして以来、時にはケンカをしたりしながらも4人は何か堅い絆で結ばれたように思います。あれ以来、山を絶対甘く見てはいけない!恐れなくてはならない!学ばなければならない!と装備を整え、無線の免許も取り、四国関係の山岳文献を蒐集し、基礎体力もつけるように努力してきました。W氏とともに中央アルプス(木曽駒)や九重などにも遠征して、やっと、最初の写真のように、いっぱしの山男山女のような貫禄がつき、もっともっと一緒に登山を楽しもうと思っていたのに・・・ここでお別れとは・・・本当に残念です。・・のんびりと辿り着いた頂上は小春日和で風もなく、10年前とはまったく違う優しい表情です。山と一緒にゆっくりと別れの杯を交わし、4人だけの思い出をここに埋めたのでした。
コノサカヅキヲ受ケテクレ 勸君金屈巵
ドウゾナミナミツガシテオクレ 滿酌不須辭
ハナニアラシノタトヘモアルゾ 花發多風雨
サヨナラダケガ人生ダ 人生足別離
この井伏鱒二の名訳で知られる于武陵の詩と「大地の歌」・・・こころに沁みるな〜、寂しいな〜
でも栄転なので、喜んで送り出さなくては・・・
ショーちゃん、どうか元気で頑張って下さい。離れてもこころはいつも一緒だヨ。苦しくなったら、この寒風山の写真を見て楽しかった日々を思い出してネ!
四国に帰ってくるのをみんなで待っています・・・いつまでも・・・いつまでも
・・・Ewig ・・・ewig・・・