[所在地]愛媛県西条市、周桑郡小松町
[登山日]2002年6月15日
[参加数]3人
[概要]先日、偶然の機会があって、「石鎚神社先達用記」という小冊子を手に入れた。著者は、愛媛県周布郡新屋敷村(現小松町)の住人、牧 龍太(鳳石)。発行日は明治14年6月15日、和紙31帖の和装本である。おそらく石鎚関係で「公刊されたものとしては最初のものであろう」と秋山英一先生は、その著「石鎚神社一千三百年史」の中で指摘している。戦後すぐに四国史籍刊行会から、岡部迪彦氏によって再版されたといわれているがその詳細はわからない。いずれにせよ、発行されてから130年を経て、まずお目にかかれることのない稀覯本で、新居浜の「別子銅山記念図書館」の蔵書目録にも載っていなかったと記憶する。しかし、表紙をめくると「石鎚山ハ南海道伊豫國周布郡千足山村ニ在リ。故ニ伊豫高嶺又伊豫ノ大嶽ト稱ス。萬葉集ニ山邊赤人ノ極此疑伊豫能高嶺ト咏スルハ正シク此山ナリ・・」と格調高い序文から始まる内容は簡潔明快で、多くの挿し絵を交えながら、あたかも先達に従っていま山頂に向かっているような錯覚さえ起こさせる。成就社の絵には明治22年に焼失したと伝えられる豊臣秀頼公寄進の在りし日の拝殿も描かれ、当時の面影を伝える数少ない史料として特に印象深い。最後のページには、冠瀑(高瀑)の豪壮な飛流の様子が力強いタッチで描かれ「・・痛快絶壮ノ大奇観、蓋シ日本第一ノ瀑布ニシテ海外ニモ亦比倫(たぐい)少ナカラム」で全文を結んでいる。今回は、この貴重な本を入手出来たことを記念し、併せて、この本に巡り会わせていただいた石鎚大神に感謝すべく、発行日に合わせて、河口から旧来の今宮、黒川道を辿って、成就社往復を試みた次第である。
[コースタイム]
河口(7:40)―三光坊(8:00)―今宮(8:40)―大杉(9:20)―
―矢倉王子(10:20)―女人返し(11:00)―奥前神寺(11:20)―
―成就社(11:45)・・昼食・・発(13:00)―行者堂(14:15)―
―虎杖橋(15:40)―河口(16:00)
[登山手記]
「石鎚神社先達用記」(以下、用記と略します)の巻頭を飾る挿し絵です。深紅の太陽が光り輝き、紫雲の間に間の御鎖に多くの人達が取りすがり、さらに石鎚大権現の御来迎を山頂で狂喜しながら拝む行者達の姿が神秘的に描かれています。太陽と御来迎の位置関係もブロッケンとしてリーズナブルであり、一度見たら忘れられない印象を読者に与えることができます。かの北川淳一郎先生も幼い頃に「用記」を読んで、まだ登らない想像の石鎚山を「何か、こう、天上からぶら下がっている山といったような、神秘と怪奇に満ちたものであった。」(四国山岳夜話)と述べられています。そういった強烈な憧れを、これから登る若者や、当時は登れなかった女子供に抱かせることがこの本の”ねらい”と思えば、この一枚の色刷りで、その目的を充分果たしていると思います。本当にいい絵だと思います。
さて、今回はその「用記」を携えて、河口から旧来の今宮道を辿り、成就社に感謝のお参りをしてから黒川道を下るという”お礼参り”ルート(自称ですが・・)を選んでみました。「用記」にも二つの道中や今宮、黒川についてかなり詳しく記されているからです。江戸時代、今宮道は「西条藩」に属し西条方面から前神寺派や極楽寺派の信者が、黒川道は「小松藩」に属し小松方面から横峰寺派や妙雲寺派の信者が登拝したメインルートでした。ことに当時の西条藩と小松藩の領地争いや、前神寺と横峰寺の別当職を巡る確執は相当なもので、最後にはお上に訴え出て、それぞれ幕府と御室御所の裁断を仰いだほどで、これも繁栄あっての争いであった訳です。明治の廃仏毀釈以降、権力は神社側に移行し、昔のような露骨な敵対関係は影を潜めましたが、それでも石鎚大祭では、信者はやはり「ウチの講は今宮道で今宮宿」「私のところは黒川道で黒川宿」と毎年同じルート、同じ宿に泊まっていたようです。しかし、双方の集落とも廃村となり深い山林の中に埋もれてしまった今、昔日の賑わいを想像することはもはやできません。せめて同じ道を辿ることで、当時と同じ苦しさや歓びをわずかに偲んでみるのみです。
登りはじめは河口の三叉路です。すぐ上に鳥居が見えるはずです。それをくぐっていざ出発。まずは整備された植林地帯のジグザグの登りです。頑張って一登り、汗が噴き出すころ、道の角に写真のような崩れかけたお堂がありました。これが「三光坊不動尊」です。お堂の寄進者を見ると香川県坂出市の人ばかり??以前は十亀宮司の書かれた由来記があったそうですが、今は失われてしまっています。これからお参りされる方々のために、少し長くなりますが、その由来を改めてここに書いておきましょう。「
・・昔、三光坊という、松平讃岐守の家来で、香川県坂出の衆人長をし、人々から人望を集めていた人がいた(俗名 常磐下藤次郎)。三十歳の時に、石鎚大神を信奉し、坂出の人のために大いに尽くした。そして三五歳の年に石鎚山麓に住み、生涯の修行の場として、座禅を組んだり、あらゆる修行に耐えて、幾歳月が流れた。長年の修行が終えたので、自分は少々のことでは死ぬものではないと思い、ある日、山頂の天狗岳から飛び降りたが、未だ修行が足りなかったのか、どうしたわけか不幸にして、そのまま死んでしまった。しかし、不思議なことに、外傷が一つもなかったという。地元の人は嘆き悲しみ、それ以後は多くの人に参ってもらおうと、修行した場所である山麓の今宮という処へ、お堂を建てて祀った。」(「西条の民話と伝説 第二集」「西条市生活文化誌」所載)・・なるほど、それで坂出か!実は私も坂出出身なので非常に感慨深いものがあります。久米仙人のようなこれと同じ様な伝説は、香川県琴南の有名な美霞洞温泉付近にもあり、また善通寺の我拝師山から飛び降りた弘法大師も有名で、香川県人はよほど高いところから飛び降りるのが好きな県民性があるのだな・・と思わず苦笑してしまいました。・・いや、不敬、不敬!苦笑などするとバチが当たりそうなので、しっかりとお参りして先に進むことにいたしましょう。このお堂の後ろには「今宮王子」「黒川王子」という二つの小祠がありますので、ぜひお参りしてください。「石鎚山三十六王子」の一つで、これらを全部巡ることで石鎚山全体の「御山駆け」ができるようになっています。現在も年に一回、3泊4日で熱心な信者の王子巡りが続けられているそうです。「用記」にもそのいくつかの記載がありますが、詳しくはまたの機会に譲ることにしましょう。もっと詳しく知りたい方は、石鎚神社から十亀和作宮司著「石鎚山 旧跡三十六王子社」という単行本も出版されていますので、神社に照会してみるとよいでしょう。まだ残部はあると思います。「黒川王子」の後ろは絶壁となっており、岩の上から、昔は黒川集落が手に取るように見えたそうですが、今は深い緑しか見ることはできませんでした。しばらく、だらだらした登りを行くと、わずかに石垣の残る「四手坂」と呼ばれる集落跡を過ぎます。ここで道は二つに分かれます。一つはそのまま今宮集落に至る登山道、いま一つは稜線を直登してゆく険しい王子道です。王子道には青地に白い矢印の道標があるので迷うことはないでしょう。いずれを選択しても今宮の上部で合流していますが、今日は無難にそのまま登山道を進むことにします。少し登ると伐採斜面に出て林道を横切ります。林道を進まないように注意してください。再び植林に入ると、崩れかけた廃屋が散見されるようになりました。ここからが今宮集落の廃墟です。なかには写真のような立派な母屋がそのまま残り、往時の繁栄を垣間見ることができます。「愛媛の文化 第9号」によると、今宮のもっとも栄えた時は大正8年で当時全戸数36戸(人口178人)中、11軒の宿屋があったそうで、大祭10日間に泊まったのべ人数は1万人を数えたと伝えられています。わずか10日で一年間の生活費が優に稼げたというのですからスゴいですよね!しかし、今は朽ちるにまかせて訪れる人とてなく、もの悲しい雰囲気だけが辺りを支配していました。
そうこうするうちに再び林道に飛び出しました。まだ新しい道で、目下の終点のようです。廃村になってから、このような立派な道をつけてどのような意味があるのでしょうか?私たちには、ちょっと理解できませんでした。山道に入ると相変わらず廃屋が続いていますが、道標や小さな屋敷神風の祠などが眼を楽しませてくれます。そして、行く手に巨大な杉が聳えたっているのが見えました。樹齢800年の夫婦杉で、今宮道の名物です。「乳杉」とも呼ばれ、昔は、乳の出ない婦人がその皮の剥いで帰って願をかけていたと言います。大祭の際は臨時の休憩小屋が設けられ、中で甘酒やトコロテンを売っていたそうです。私たちもその傍らでゆっくりと休憩していきました。周囲はまったくの植林の中で、夫婦杉もとても窮屈そうに見え、ちょっと可哀想な感じです。やさしく幹をなでてから再び出発です。どこまで行ってもダラダラした登り道が続いています。周囲の展望もなく単調な山道です。もう稜線も近そうに見えるのですが、なかなか辿り着けません。風もなく汗が噴き出してきました。「王子道」を合わせ、しばらく行くと道の辺に、宝が埋まっているという「花取王子」を過ぎ、なおも進むと写真のような茶屋の廃屋と杉の巨木のある「矢倉王子」に到着です。ここには「八倉の清水」と呼ばれる水場があり、以前は堂々とした瓶ヶ森を正面に仰ぐ、今宮道きっての眺望の場所として栄えたそうですが、今は周囲の灌木が大きくなりすぎて何も見えません。茶屋も倒壊寸前で寂しい限りです。
ここまで来ると成就まで、あとわずかです。しかし、その”わずか”の長いこと。「山伏王子」(これは登山道から少し寄り道しなければいけないのでパス)、「女人返し王子」(これは、その名の通り、昔はこれより上は女人禁制でしたが、その由来を説明すると以前の高越山のように、また私が悪者になってしまうので黙ってパス)を過ぎてやっと稜線に到着です。昔は黒川道の行者堂や、遙か下に黒川集落が遠望できたと言われていますが今は深い樹林帯が続いているだけです。しかし、さすがに下から吹き上げる涼風は昔と変わらず、疲れた体に一服の清涼剤を与えてくれます。それを糧に最後の急登を頑張ります。松長晴利先生も「この辺は今宮道で一番いやな所である。薄暗い単調な登行は朝からの疲れが一度に出てしまうような気持ちである。」と「中国・四国の山旅」の中で述べられています。ただ、ひたすら耐えて黙々と登るのみ・・道が次第に水平道となり、ロープウェイのアナウンスが耳に届く頃、いきなり視界が拡がり、ピクニック園地のロープ塔のところに飛び出しました。この写真はどうでしょうか?「未知との遭遇」か?それとも「ET」か?巨大な宇宙船が後ろに現れたようで、自分でとても気に入っているのです。いままでの廃屋の続くうらぶれたイメージとのミスマッチも相当なものです。まあ、これも時代だな・・と納得しながら気持ちの良い芝生で休憩。ついでに付近に自生する「キイチゴ」もおいしく戴きました。
奥前神寺で般若心経をあげたあとは、ハイヒールの観光客と一緒に成就社まで最後の頑張りです。イヤだな〜と女性軍は嘆くのですが・・その道の傍らにも「杖立王子」と呼ばれる標柱と小祠があります。ここで杖を立て掛けてから石鎚に登った謂われがあるそうですが、何万とある杖が一本も失われることなく、また間違われることもなかったそうです。さすが信仰の力はスゴい!・・と感心しながら12時前、無事、成就社に到着。さっそく拝殿と見返り殿にお参りして、今日の目的を達成しました。ここにも王子社がありますので、お忘れなきようお参りください(拝殿の左側です)。その名も「稚子宮鈴之巫子王子社」。この曰くありげな名前は何なのでしょうか?十亀宮司の本にもその謂われは書かれていませんでした。どなたかご教示いただければ幸甚です。お参りのあと、白石旅館の奥様に、3人で記念の写真を撮ってもらいました。「用記」の挿し絵を拡げて得意満面の顔!本当に嬉しかったです。まず、今生で手に入れる事は不可能、と思っていた本だけに喜びもひとしおでした。見返り殿を振り返っても今日はあいにくの曇り空で石鎚山頂は見えませんでしたが、遙か天空に鎮座まします石鎚大権現に心から感謝を捧げました。
昼食は白石旅館で、奥様と談笑しながらのんびりと摂らせていただきました。もう一日、休みが取れれば、ここで一泊してこのまま山頂に向かえるのに、日帰りではちょっとキツい!実に残念です。13時、名残惜しく下山開始。黒川道の入り口は、現在、「通行止め」になっていますので、ここでは伏せておきます。辿られる方は、白石旅館にお尋ねして確認される方が良いでしょう。特に危険な個所はありませんでしたが、道の大半は「黒川谷」の左岸を縫う沢沿いのコースなのでやや崩壊が進んでいます。草深い道ですが、赤テープが要所要所につけられていますので、まず迷う所はありません。ただ、スキー場のリフトをくぐる辺りは、作業道が錯綜していますので、黒川谷の左岸から離れていかないように注意してください。
黒川道は、今宮道のような植林地帯が少なく、上部はすがすがしい自然林が豊富に残されています。紅葉の頃は、きっとこの世のものとも思えないくらい美しいだろうと思います。谷間であるため、小さな滝や渓流にも恵まれ、想像以上に変化のある面白いルートで、このまま朽ちさせてしまうのは本当に惜しい登拝路です。そんな道を1時間ほど楽しみながら下ると「行者堂」跡に到着です。昭和2年発行の「石鎚登山記」(清水文乙氏著)には、「・・役の行者に着いたのは四時過ぎ、山門を這入ると左側に二三の役僧がランプの灯影でねむ想な目をしばだきながら御札や御守を売って居る。右側に祠がある。祠には当山の開拓者 役の行者が安置して燈明が風に揺らいで居る・・」と記されていますが、今は蔵王権現の石像があるのみで、堂宇は倒壊して夏草に埋もれ昔日の面影は全くありません。この本は、一体どこの事を書いているのだろう?と戸惑ってしまうほどです。ここは、もと黒川道の女人結界の場所でもあったそうです。悲しい気持ちで、なおも下って行くと道は次第に水平となり、ようやく植林地帯の中に突入です。ここでK女史は小さなお茶の木を見つけました。黒川集落は土佐嶺北の「碁石茶」と並ぶ「黒茶」の特産地でもあったのです。「インカイジャ」とも言い、殺菌力が強いため、水の悪い越智郡、今治方面でよく売れたと伝えられています。周囲を見渡すと崩れかけた石垣が空しく残り、確かに上黒川の集落跡だと思われました。(ちなみに「碁石茶」は讃岐方面に多く出荷され、「マンクソチャ」と呼ばれていたそうです。)
さらにしばらく下ると、今宮と同じ様な廃屋が次々と現れてきます。明治44年には上黒川で12軒、下黒川で11軒の季節宿があったそうです。中には江戸中期の立派な重要文化財級の建造物もあったと云われ、全て倒壊しつつあるのは本当に惜しいことです。左の写真は、季節宿盛んなりし頃の黒川の様子です(「石鎚山系の自然と人文」所載)。大きな幟を立て、「権衆、来たかや!」「権衆、来たぞよ!」と主人と客が抱きあって、毎年の再会を喜び合う情景は一幅の絵のように微笑ましく、厚い信仰をともにする美しい人情の世界でした。また、黒川集落は、季節宿のみならず、戦国時代、河野氏の一族として周敷郡一円を支配し、江戸時代には千足山村の大里正をも勤めた名族 黒川氏の本拠地でもあります。ここでは省略いたしますが、興味ある方は次の素晴らしいHPがあるのでご覧になってみてください。郷土資料としても非常に役に立つ内容です。【
予州 黒川家】 付近には、平安時代に信濃善光寺から阿弥陀如来を勧請したという宜通上人の墓や、善光寺阿弥陀堂(ご本尊は、現在、衛門三郎伝説で有名な松山市恵原町の文殊院に安置されています)など興味深い旧跡も多いところですが、私たちだけでは訪ねる術もなく、千年の歴史を持つ集落の終焉に巡り会ったわびしさだけを抱きながら、静かに下ってゆくしかありませんでした。集落の入り口にはお地蔵様と、夜を急ぐ旅人のために一日たりとも灯火を絶やすことはなかったと伝えられる石灯籠が残り、昔日の繁栄を静かに語りかけてくれます。お地蔵様に見送られて、あとは簡易コンクリートの歩きやすい道をひたすら下り、15時40分、無事、「虎杖(いたどり)橋」のたもとに下り立ちました。「用記」にも「板落(いたづり)橋」として描かれ、河の中には、大きな「烏帽子岩」が昔の通りに居座っています。数人の若者がロックの練習をしていました。満ち足りた気持ちでのんびりと舗装道を辿って、「横峰寺別院」にお参りのあと河口まで還ってきました。女性軍から「ありがとう。いい計画だったネ。」と言われ改めて嬉しく思うとともに、長い歴史を持つ登拝路をこのまま廃道にしたくないという思いをさらに強くしました。