[所在地]愛媛県西条市、高知県土佐郡本川村
[登山日]2002年7月14日
[参加数]4人
[概要]先月の「石鎚神社先達用記」入手記念の第2弾!である。やはり、頂上社まで、「御礼参り」しなければ・・ということで計画した。当初、駐車場から瓶ヶ森ハイクの後、縦走路を伝って、土小屋から石鎚を極める予定であったが、「瓶」でのんびりとしすぎたため中止。車で土小屋まで移動するという軟弱登山となった。さて、そもそも瓶ヶ森は「古権現」とも呼ばれ、往古は石鎚権現が鎮座していたと謂う。「・・亀の森と申所へ御移被成、彼所より又与州石つち山へ御移り被成候て・・」(皆山集)や「・・権現、元は瓶ヶ森にましましたり。・・」(西条誌)など、土佐側、伊予側の史料ともに、それを是としているのは、それが事実であったからに違いない。さらに「松島慶吾日記」には、天長5年(828年)5月17日、権現様が”西の川”の高須賀家の先祖の背中に負われて、瓶ヶ森から石鎚山に遷座ましますとも記されているというが、そこまで信用してよいかどうかは後考を待たなければなるまい・・・まあ、しかし、そんな堅い話はこれぐらいにして、今回は石鎚権現の恋人の話をしよう。さすがは世界でも珍しい「女性を愛する」という意味の県名を堂々と付けているお国だけのことはある!!!・・・女人禁制など、どこ吹く風やら・・・
[コースタイム]
瓶ヶ森駐車場(8:30)―男山(9:05)―女山(9:30)・・散策・・―
―駐車場(11:10)・・車にて土小屋に移動・・ 土小屋(12:10)―
―弥山(14:30)―天狗岳(14:50)・・大休止・・―土小屋(17:30)
[登山手記]今日は、瓶ヶ森駐車場から氷見二千石原散策、および土小屋から石鎚ピストンを組み合わせた得意のダブルハイクです。登山道も整備され、特に取り立てて記するものもありません。雲は多いものの展望もまずまずで、すがすがしい夏の一日を楽しみました。瓶ヶ森ではおいしい「瓶壺」の水をガブガブと飲み、石鎚北斜面トラバースのルンゼでも水をすくって飲むことができました。(渇水期には枯れていることも多いのでご注意を!)多くの登山者も、その水をペットボトルに汲んでいたのですが、本当の”石鎚の霊水”と呼ばれるものは弥山の南側、通称「裏行場王子」と唱えられる絶壁にあるそうです。「西条誌」にも「水の禅定」として記されていますが、私は残念ながら行ったことはありません。モノの本に因ると、いかなる旱天にも枯れることのない水で、「お山祭り」の期間中、何万何千という多くの行者が飲んでもなくなることはないと云われています。傍らには「役の行者」が刻んだと伝えられる石仏もあるそうですが、命綱なくしては行けないところで、どのようなものかは確認できていません。「石鎚山三十六王子」の一つにもなっていますが、その祠が、弥山頂上の権現祠に合祀されていることからみても通常は行くことができないのでしょう。まあ、ルンゼの沢水も同じ頂上の水なので御利益は変わらないでしょうけど・・。
さて、さて、ここに石鎚山麓の村々で歌われる民謡があります。
お山の水は恋の水 飲まばやの
「お山の水」と呼ばれる地元では有名な民謡で、保存会まであって、現在も盂蘭盆に集って謡われるそうです。学説では、これは「若返り」を表す「変若の水(おちのみず)」が変化したのだ(愛媛の文化 第9号)と言われていますが、しばらく、そんな無粋は忘れていただきましょう!これについて面白い伝説があります。少し長くなるのですが、「千足山村誌考」(十亀縫之進氏 著)から転載させていただきます。
「・・神代のむかし、この石鎚比古の大神の御身内の姫神、市木島姫の命(私註:安芸厳島神社の祭神です)がこのお山に石鎚比古の大神さまを訪ねましける時、大神は、このお山の水を姫にもてなして『この水は天(あま)の真名井(まない)の真清水(ましみず)にこそ』とのたまひければ、姫神いたく歓びて『この水、天の真名井の水なれば、これわが故郷(ふるさと)の恋の水なり。この恋の水がこの山にあるこそうれしけれ、今よりは故郷を思ひ出のたびたびこのお山に登らん』と申されけるに大神『この山嶮しければ姫神のしばしば登ります山にあらず、さればこの東の山の頂きに瓶を置きて、この水を貯へん』と仰せられたり。されば後の代に、この山を瓶が森と云ひ伝へけるとなん。」
これに続けて縫之進先生は「古来、地方の伝説に、お山の水の流るるところは白色にして紅顔の美人多しといふ。随って昔しより加茂川筋にはよく多くの美人ありとの定説ありと云ふ。」、さらに「面白き自画自賛の伝説と云ふべし。」とご愛敬で書かれています。これについて、西条出身のH女史などは、「それは、ご愛嬌などではない、事実だ!」とうるさいのですが・・・
その西条には「伊曽乃神社」という有名な神社があり、少し違った伝説が語り継がれています。
「・・むかしむかし、石鎚の男神と、伊曽乃の女神は相思相愛の仲でした。石鎚の神は、きりりとした眉や涼しい瞳を持つ、見るからに男らしい美男であったということです。若葉薫る頃、ラブラブの二人は加茂川のほとりでデートをしました。結婚してくださいという女神の言葉に『わしは、まだ石鎚のお山で修行せないかんのんじゃ。そりゃあ、無理ぞい。』と冷たく突っぱねました。思わず泣き崩れる女神の姿に、さすがの男神もいとおしく思われ、女神の肩をやさしく抱きながら『ほんじゃ、こうせんかい。わしが山の頂上から石を三つ投げるけんの、真ん中の石のところに社を建てて待たんかい。ほんでノーエー、修業が済んだら一緒に住もうぞい・・の、の、愛しとるけんの・・』とか、なんとか。・・男神は約束通り、石を投げてきたので、女神は喜んでそこに社を建てたと言うことです。それが伊曽乃神社の始まりで、今も鳥居の脇に、男神が投げた大石が残っているそうです・・。」
これに続けて「西条市生活文化誌」では「ほんでも男神は、まだ、もんてこん。女神がそんなに待ちよるのに・・・男神の修行は、おもうように、はかどらんかったんじゃ。・・伊曽乃の女神との結婚は、どうなったんじゃろうか?むかしむかしのはなしよのう・・」と、つれない男神を批判がましく結んでいます。石鎚をとりまくところは、水波峰の神様といい、豊受山の神様といい、先の厳島の神様といい、皆さん、みめ麗しい女神様ばかりなので、石鎚の神様もなかなか修行に熱中できないのは理解できます。しかし、伊曽乃の神様には下で待たせておいて、厳島の神様にだけ登ってこさせるとは、本当にけしからん話だとは思いませんか?・・今も伊曽乃の神様は、石鎚の神様を信じて待ち続けていらっしゃるのですよ!付近にたくさん、ほかの女神様もおられるので、気が気ではないでしょうに!年に一度、西条市をあげて盛大に「だんじり祭り」で、お心をお慰め申し上げているのが、せめてもの救いというものです。石鎚の神様、早く帰ってきてあげてくださいネ!
と、まあ、そんなこんなで、「石鎚の水」と「瓶壺」の水が密接に関係し、また「恋の水」と謡い継がれているのも、理解していただけたと思います。
神様がこんな具合ですから、人の代になって、もっとすごい禁断の恋を実践した、愛媛ゆかりの方がおられます。それは「木梨の軽の太子」と「軽の大郎女」のご両人です。「軽の大郎女」は、別名「衣通(そとお)しの王」とも呼ばれ、衣を通して光り輝く姿態が見えるほどの絶世の美女であったということです。「古事記」によると、二人はともに允恭天皇の同母兄妹で、はっきり言って近親相姦です。それが発覚して、皇太子を廃せられ伊予の道後に流されました。太子を慕って追ってこられた郎女と最期は心中を遂げたと伝えられていますが、「古事記」(武田祐吉 訳註 角川文庫による)に記されているお二人の「歌」がまた、すごいのです。
太子から大郎女への歌
『あしひきの 山田を作り
山高み 下樋をわしせ(以上は揶揄による序文)
下娉ひに 吾が娉ふ妹を(人に知らせないでひそかに問いよる妻を)
下泣きに 吾が泣く妻を
昨夜こそは 安く肌触れ 』
この最後のフレーズは過激だな〜
さらに
『うるはしと(愛する人と) さ寝しさ寝てば
刈薦の (枕詞) 乱れば乱れ
さ寝しさ寝てば 』
これは、もっと過激だな〜 訳する必要もないくらいに・・・
悲しいけど、美しいですよね。神様なんかは、結局、全部、近親相姦ですからねえ・・・臣民や皇位継承権までかなぐり捨てて、激しく燃え上がった凄まじい情念!おまけにインセスト・タブーとくれば、これはもう、あの『うたかたの恋』をも遙かに凌ぐ大スクープです!・・今は静かに、この安住の「愛媛」の地で眠られ、お二人の恋はきっと天国で添い遂げられていることでしょう。
ああ、恋、恋、恋はすばらしい!!中高年になっても、「恋」は永遠の憧れです!
やはらかに
積もれる雪に熱てる頬を
埋むるごとき恋してみたし
これは「啄木」だったかな?
不況不況で、クソ面白くもない出来事が多い昨今、せめて「石鎚の水」と「瓶壺の水」をたらふく飲んで、神様や軽兄妹にあやかり、ほてる頬を冷やさなければならないくらいの恋がしてみたいものですよね!
皆さんも「石鎚の水」を飲んで、ぜひぜひ、素晴らしい「恋」をしてくださいネ!!