【細川定禅、鷺田庄にて旗揚げ】
南海治乱記・・・建武二年乙亥十二月十一日、讃岐国の住人高松三郎頼重早馬を以て京都に申やうは、東国足利の氏族細川律師定禅、去月二十六日に当国鷺田(今の坂田)の庄に来て旗を揚る処に、詫間香西是に組して三百余騎に及ふ。頼重是を退治せんか為に時刻を移さす屋島の麓に打寄て国中の兵を催す処に、定禅にさへぎって夜討を致せし際、頼重身命を捨て防戦と云へ我に属する処の当国の兵も忽に翻て身方を射る故に頼重か老父并に氏族十四人郎従三十四人其場に於て戦死す。一陣彼の為に破られ是に因て讃州藤橘両党、阿州板東坂西其外国中の者共残ず定禅に属する際其兵三千余騎に及て兵糧を調へ兵船を用意して宇多津より備前の児島に渉て既に京都に攻上んとすと註進す。此頼重が後裔世々相続て高松の城主たり。・・・ (四国兵将、細川氏に属するの記;巻之一)
太平記・・・・・カヽル処ニ、十二月十日、讃岐ヨリ高松三郎頼重早馬ヲ立テ京都へ申ケルハ、「足利ノ一族細川律師定禅、去月二十六日当国鷺田庄ニ於テ旗ヲ揚ル処ニ、詫間・香西コレニ与(くみ)シテ、則三百余騎ニ及ブ。是ニ依テ、頼重時剋ヲ廻ラサズ、退治セシメン為ニ、先ヅ矢嶋ノ麓ニ打寄テ国中ノ勢ヲ催ス処ニ、定禅遮テ夜討ヲ致セシ間、頼重等身命ヲ捨テ防戦フト雖モ、属スル所ノ国勢忽ニ翻テ剰ヘ御方ヲ射ル間、頼重ガ老父、并ニ一族十四人・郎党三十余人、其場ニ於テ討死仕畢。一陣遂ニ彼ガ為ニ破ラレシ後、藤橘両家・板東・坂西ノ者共残ル所ナク定禅ニ属スル間、其勢已三千余騎ニ及ビ、近日宇多津ニ於テ兵船ヲ点ジ、備前ノ児島ニ上テ已ニ京都ニ上ント仕候。御用心有ベシ。」トゾ告申ケル。 (諸国朝敵蜂起事 巻第十四)
細川岡城記・・・建武三年細河律師定禅、北朝の味方として、讃岐国香川郡鷺田(今の坂田)に来りて旗を揚ぐ。時に詫間三郎・香川景玄・香西親茂馳来りてこれに属す。屋嶋の麓に陣して、高松小三郎が城を攻む。小三郎大に破れて、老親及近臣ヲ引て、壇浦より舟に乗りて、南都の皇居に到て事を奏す。これ讃州諸士細川氏に属するの初なり。 (「香川叢書 第二」所収)
鎌倉幕府が滅びて僅かに3年、中先代の乱をきっかけに足利尊氏は独断で関東に下り建武新政は早くも綻びを生じた。後醍醐天皇も最初は致し方なしと追認していたが、どさくさで護良親王が鎌倉で暗殺され、無断で論功行賞(特に新田義貞の所領を勝手に没収、一族に分配)を行うなど天皇に反抗的な専横が続いたため、建武2年11月、遂に新田義貞に尊氏追討の宣旨を出した。しかし、二三十万騎(太平記)と称された大軍勢も箱根・竹之下の戦いに敗れてすごすごと都に帰るしか術はなかった。尊氏方の細川定禅が讃岐の鷺田庄に兵を挙げたのはその直後である。むしろ、挙兵は関東での戦いの前に入念な打ち合わせがあったことは明らかで東西のあちこちで挙兵することで天皇側に多大の心理的不安を与えることが目的であったと考えられる。高松氏は、神櫛王を始祖とする凡直千継(おおしのあたいちつぐ)の子孫と言われ(⇒❡)、三木氏や寒川氏と同族である。しかし、高松頼重は別名を舟木頼重ともいい、元々は美濃、近江に所領のある土岐氏族で新政に功績があり讃岐国高松荘が与えられたともいう(尊卑分脈)。頼重についてはおそらく後者が正しいのではないかと思われる。一方で神櫛王系の高松氏もいたことは間違いなく、細川政元の時代に安富氏配下であった牟礼氏や、喜岡城の戦い(⇒❡)で玉砕した高松左馬助などはこの流れではないだろうか?「南海治乱記」の記述とは少し異なるところではある。
讃岐には代表的な武家の系統として、次の古代氏族の系統が知られている(図1.参照)。
●讃留霊王・綾大領系(讃岐藤家)・・悪魚を退治した日本武尊の皇子、武殻(卵)王が讃岐を与えられ讃留霊王と名乗った。主に阿野郡を本拠としていたのでその子孫は代々、綾氏を名字とした。国造を務めた時期もあったが、律令以降は国司の下で政務を司る各郡の郡司として勢力を張った。国司であった藤原家成が綾氏の娘を娶って章驍生み讃岐藤家を名乗るとともに、その長子である資高は羽床氏を称し、香西氏はその分流である。しかし、羽床氏は承久の変で上皇側について没落し、替わって香西氏が讃岐藤家の棟梁となったという。次男の有高は大野氏、四男の資光は新居・福家氏の祖となった。さらに平安時代までには三野郡まで勢力を伸ばし三野大領家も綾氏を称している。分流を含めると実に63家を数えたという。
●神櫛王・讃岐公系・・景行天皇の皇子である神櫛王の子孫で平安時代初期に凡直千継が讃岐公に改姓し、主に東讃で繁栄した(⇒❡)。主な一族に、高松、三木、寒川、神内、植田、池田、十河、三谷、由良などがある。西讃では那珂郡の櫛梨神社の祭神は神櫛王であり、酒作りで繁栄した神野郷の酒部黒丸や成善は神櫛王(あるいは讃留霊王とも)の子孫と伝えられている(⇒❡)。元々、“櫛”は“具志(クシ)”で酒の異称であることから、古代より醸造業で繁栄した酒部の一族なのかもしれない。
●讃岐橘氏系・・藤原純友を討伐した橘遠保(⇒❡)の子孫で、その恩賞として伊予国宇和郡を与えられたが、讃岐でも荘内半島を中心に領地を持ち、荘内半島の海崎氏(那珂郡の長尾氏)や、山田郡向城主の真鍋氏はその子孫と伝えられる。真鍋氏の発祥は真鍋島(岡山県笠岡市)で、真(マナ)は真魚に通じることから海崎氏とともに海人族に関係するとも考えられている。(「讃岐まなべの歩み」讃岐まなべ会 平成22年)
●その他の古代氏族・・那珂多度郡を中心として勢力を張った一族に佐伯氏(⇒❡)がいる。善通寺背後の大古墳群からしても古墳時代(あるいはそれ以前)からの大豪族で、空海(弘法大師)を輩出したことでも有名である。佐伯氏の系統には本目、新目、山脇、長尾氏などがある。和気氏は佐伯氏と姻戚関係のある因支首氏(いなぎのおびと)の系統で、空海の甥に当たる円珍(智証大師)が出ているが、「鶏足山金蔵寺縁起」などには、和気氏は讃留霊王の子孫であるとしている。このほか讃岐には、香川郡における渡来人系の秦氏(⇒❡)や三野、那珂郡の忌部氏など土地開拓や採鉱や麻栽培などの産業を興して土着する強力な氏族も知られているが、中世武士団としての発展は必ずしも明らかではない。
以上のように、古代氏族がどのように中世武家と結びつくかはまだまだ不明なことが多く、他の氏族がその名跡を継いだということもあろうし、領民に対する権威付けのために系図をこじつけた事例もあるだろう。ここでは「南海治乱記」の冒頭の記事として、讃岐武家の源流についてやや詳しく述べたが、さらに詳述する必要がある場合は、各項目内にその都度、記すことにする。
図1.讃岐における中世の有力氏族の分布図。(原図は⇒❡、拡大は画像をクリック!)
さて、細川定禅が挙兵した「鷺田庄」は香川郡坂田庄で、現在の高松市東ハゼ町付近である。今も「鷺田郵便局」などにその名を留めている。一方、舟木頼重が拠った高松庄は現在の高松市高松町付近で、後年の喜岡城付近がその本拠地と推定されている。双方は目と鼻の先で、香西氏や詫間氏、三木氏などが定禅側に寝返った後での挙兵であることは間違いなく、頼重が気づいた時にはすでに高松庄は優勢な敵に包囲されていた訳で、夜討ちによって一族郎党は殲滅され(「細川岡城記」はやや異なるが・・)、頼重一人が這々の体で都へ立ち戻り「用心すべし!」と注進したのである。しかし、朝廷はたかが尊氏方の散発的な地方の挑発と侮り早めの手当をしなかったために翌年の湊川の戦いに大敗を喫す原因のひとつとなり、大きな禍根を残すことになったのである。
図2.鷺田庄と高松庄の位置関係。(原図はYahoo地図)