南海治乱記・・・天正十三年四月、浮田八郎秀家、備前美作の兵一万五千人蜂須賀彦右衛門尉正勝、黒田官兵衛尉孝高を撿使として仙石権兵衛尉久秀、尾藤甚右衛門尉知定、杉原七郎左衛門尉家次、小西彌九郎行長共に七人の兵将二万三千人を以て讃州に発向し四月廿六日に屋島の浦に到着し北の峯に籏を押上たり。国中の人民これを見て騒動すること云ふばかりなし。北の峯は分内狭迫にして兵を留がたき故に南の峯に移る。此山は上代の名城なれども山高して戦をなすに用なし。其日下山して牟禮高松に上りける。
爰に喜岡の城とて小城あり。高松氏世々の居城也。香西伊賀守が旗下なれば加番として唐人弾正、片山志摩守を兵将として百餘人指遣はす。高松左馬助が百餘人ともに二百餘人を以て城を守る。去年、仙石秀久、小西彌九郎二千餘人を以て攻れども堅城なれば陥ず。今度、四国の手先きに在て大軍の馬蹄にかかる。秀吉公の御目代、黒田孝高より浮田秀家に告て曰く、爰に小壘あり、此度の手始なれば踏落て然るべし。高松山の松を剪寄せから堀を埋上げさせ足代にして一時攻めに陥し国人の聴を驚かすべし、と下知し玉へば、仙石氏是を聞て、去年我が攻め遺たる城なれば人手には懸べからずとて攻寄る。総軍相諍ひて攻具を待たずして取り上ること蟻の如し。是に附て死亡多し。城内にも鉄砲百挺ばかりあれども業するとも見へず。敵二万餘兵、天地を響かせ攻め寄する。堀塀堅固なれども猛勢に切所なければ大軍否が上に重なり何の造作もなく乗落し二百餘人の者ども一人も洩さず攻め殺す。・・・(⇒❡に続く) (備前播磨軍将、讃岐に出陣の記;巻之十四)
全讃史・・・・・昔、此の地喬松ありき。因つて高松の名あり。讃岐朝臣の族、高松小三郎頼重、世々采を高松郷に食む。故に高松を以て氏と為せり。其の裔左馬助頼邑に至りて香西氏に属せり。天平十一年、仙石秀久封を讃岐に受け、先づ高松城を攻め、克たずして還りぬ。豊公の南征するに及び、其の大軍に敵し難く、片山志摩、唐人弾正之れが援を為したりと、竟に三将首を授けて、城も亦陥りぬ。(通記に高松氏を以て神櫛王の裔と為す。今は之に従ふ。或は多田満仲の裔と為すも未だ深く考へざるなり。) (喜岡城;巻之九)
香西史・・・・・弾正(元鄰)上村に居る。摂州有馬渡谷合戦にて大武功あり、三好氏之を賞すに感状を以てす。是に於て遂に吉例を以て香西を改め唐渡と称す。天正十一年八月、香西合戦の時、浜手を押へ海賊を数多く打殺す。天正十一年癸未、仙石秀久、讃に封を受け先づ喜岡城に至りて攻れども克ずして遷る。十三年丁酉四月二十六日、豊公、黒田卒兵に命じて之を攻め、真鍋彌助、片山志摩等救はんと雖も城中二百餘人、心を一にして命を決し戦死す。之時四十八才。法名永春含笑大居士。喜岡西偏に土葬す。 (唐戸家系図より)
天正十三年四月、備前の宇喜多秀家と、播磨の蜂須賀勝正、黒田孝高らの連合軍は瀬戸内を渡海して屋島浦(檀ノ浦)に上陸した。羽柴秀長、秀次の阿波方面軍の発向は早くても五月以降であるから、讃岐へは一ヶ月ほど先駆けて上陸を敢行したことになる。これは喜岡城(高松城)の総攻撃が四月二十六日であることからも明かである。少なくとも三万以上の整った軍勢が大挙して上陸したのだから讃岐勢も水際では為す術もなく、各々の城にじっと閉じ籠もるしかなかった。微笑ましいのは、連合軍がまず屋島に登ったということで、確かに屋島は天智天皇の頃に築城された古代の巨大な朝鮮式山城であるが、天正年間にはすでに櫓などもなく石垣程度しか残っていなかったと思われ、山上の屋島寺に駐屯するにしても此処とて大軍の飯を炊ぐのは全く不可能なため、あたふたと下山したに違いない。軍略に長けた黒田官兵衛が付いていながら千慮の一失というべきか、或いは余裕があるからこそ出来た”国見”程度の行動だったのかもしれない。
檀ノ浦から南の高松平野に出るには、其処を塞ぐ様に築かれた高松城(喜岡城)を抜かなければならない。2年前には仙石秀久が稚拙な力押しで攻めて惨敗した所で、官兵衛も再度の報復攻撃を秀家に進言したのである。一方、守る側は香西家臣で城主の高松左馬助頼邑に加えて補強部隊として片山志摩守俊秀、唐渡弾正元鄰が香西佳清の命で派遣された。全員ここで討死したことから、この三名を一般には”三烈士”と呼んでいる。しかし、「香西史」では”西光寺表の戦い”(⇒❡、❡)勇名で名を馳せた真鍋弥助祐重も共に戦死したことになっている。彼に関してはその後に生駒氏の家臣になったとか居城の向城(木太郷)付近に墓があるとか異説も多く今ひとつ判然としないが、もし一緒に戦ったのなら一人残らず玉砕したのであるから弥助も加えて”四烈士”としたいところではある。いずれにせよ三氏とも領地が喜岡城近くにあったので援軍の要請を受けて駆けつけたのは当然とも言えるだろう。
かくして四月二十六日、城ヘの総攻撃が切って落とされた。官兵衛はまず伐った松の枝で堀を埋め突破口を作ってから攻め寄せ、さすがは智謀の将だけあって仙石秀久の二の舞を演じることなく一日で城は炎に包まれて落城した。僅か200人の城を3万近い軍勢で攻撃したのだから当然と云えばそれまでだが、元々香西氏は元親の敵であったのだから、あっさりと降伏すればそれで済むところを、「朝に元親軍へ和し、夕に猿郎(秀吉)に屈するは大丈夫の恥ずる所」と玉砕に甘んじた潔さ故に、今も昔を偲んで訪れる人々の涙と頌辞の絶えることはない。
さて、高松氏は舟木氏とも称し細川定禅によって攻撃された建武新政時の讃岐守護(⇒❡)で元来は土岐氏と云われるが、一説には神櫛王の後裔(讃岐氏)とも伝えられる。北朝政権になってどのように采邑地を保っていたのかは不明だが、讃岐を代表する古氏族ゆえに分流も多く寒川氏や植田一族とも血縁で結ばれていたからと考えれば讃岐氏とする方が妥当かもしれない。下の航空写真は高松城付近の昭和22年頃の様子。高松城近くの大邸宅は讃岐を代表する素封家の揚氏邸。その東には久保氏邸があり、いずれも十河氏家臣の久保盛長の子孫であるが(⇒❡)ここに移ったのは江戸時代以降であり、「讃州府志」には揚邸が神櫛王舎跡と記載されることから(⇒❡)、おそらくは揚邸こそが従来の高松氏の居館だったのではないだろうか?今も古い石垣などの遺構が残っているようである。航空写真では喜岡城の北側に条里制の水田の乱れがみられ、往古は湿地帯であった跡が歴然と残っている。堀よりも幅広くぬかるむため、小城ながらも中々の堅固な城であったことが偲ばれる。
片山氏は藤原秀郷流とされ香西元定に従って讃岐に来たという。采地である坂田郷の片山の地名を取って片山氏を称した(⇒❡)。志摩守戦死の後、各地を転々とするも初代高松藩主の松平頼重に仕えて百石を賜い代々存続した。
唐渡(唐戸)氏は、香西氏の分かれで上記に記した通りである。一説には保元の乱で讃岐に流された崇徳天皇に随行した唐渡左門雅基が祖ともいう。栗林公園東の上村城を本拠とし、香西氏滅亡後は生駒氏に仕え、その後、香西鶴市村に移って百姓となった。その事について、藤の名所として有名な鬼無の“岩田神社”に纏わる興味深い話があるので、「弦打風土記」(高松市立弦打小学校PTA編 昭和44年刊)より転記させていただく。長い年月を経て子孫でさえ先祖を忘れてしまっていたが、名家の輝きは埋もれる事はなかったという希有な事例で、いつ読んでもある種の感動を憶えるのである。
『 鶴市(弦打)村に嘉衛門という人がありました。昔から当社(岩田神社)の祭の時、百姓であるのに幣殿にすわって、御神体を神輿にうつし奉るのが習わしでありました。かえって社僧が下座にすわっていました。そのわけがわからないので、社僧が村長にいうには、「百姓であって特に他村から来て(鶴市村から飯田村へ来てのこと)社僧より上について御神体をうつし奉ることは、何にもいわれがない。私がこれに代わろう。」といいましたので、村長も止むを得ず嘉衛門を呼んで、「由緒があるならいってみよ。」と、いいました。嘉衛門は無学な百姓のこととて、「何にも知りません。」と、申し上げたので、旧例を改めようとしました。
その時、嘉衛門はいろいろと考えてみました。ふと気がついたことは、昔から我が家に大切に秘め置いてある一つの箱であります。先代から開くことを禁ぜられていましたので、まだ見たことがありませんでした。不思議に思って開いてみますと、戦国の昔、山田郡喜岡城(古高松)で討死した唐戸弾正の系譜と旧記がはいっていました。嘉衛門はその後裔(子孫)であることがわかりました。当社は、唐戸家先祖代々の鎮守社で、昔は当社のある所が宅地であったことが明らかになりました。そこで、村長は急いで庁に届けました。庁吏三井常一郎(代官役)は公庁に届け、何事もこれまでの通りにせよとのことになりました。・・・ 』
(航空写真は国土地理院(昭和22年)を使用。拡大は画像をクリック!)