【中院源少将、西長尾城に入る?】
太平記・・・・七月廿三日ノ朝、右馬頭(細川頼之)帷帳ノ中ヨリ出テ、新開遠江守真行ヲ近付テ宣ヒケルハ、「当国両陣ノ体ヲ見ルニ、敵陣ハ日々ニマサリ、御方ハ漸々ニ減ズ。角テ猶数日ヲ送ラバ、合戦難儀ニ及ヌト覚ル。之ニ依テ事ヲハカルニ宮方ノ大将ニ、中院源少将ト云人、西長尾ト云所ニ城ヲ構テヲワスナル。此勢ヲ差向テ攻ム可キ勢ヲ見セバ、相模守(細川清氏)定テ勢ヲ差分テ城ヘ入ベシ。其時御方ノ勢、城ヲ攻ンズル体ニテ、向城ヲ取テ、夜ニ入ラバ篝ヲ多ク焼捨テコト道ヨリ馳帰リ、軈テ相模守ガ城ヘ押寄セ、頼之、搦手ニ廻リテ先小勢ヲ出シ、敵ヲ欺ク程ナラバ、相模守縦(たと)ヒ一騎ナリ共懸出テ、戦ズト云事有ベカラズ。是一挙ニ大敵ヲ亡ス謀ナルベシ。」トテ、新開遠江守ニ、四国・中国ノ兵五百余騎ヲ相副、路次ノ在家ニ火ヲ懸テ、西長尾ヘ向ラレケル。・・・ (細川相模守討死事付西長尾軍事;巻第三十八)
関城書裏書・・延元三年戌寅九月十一日壬申、官軍陸奥国ニ赴ク。伊豆洋中颱風ニ遇ヒ船、東西ニ漂フ。懐良(牧宮)満良(花園宮)親王、四国地ニ漂到ス。左衞門尉土居通増、懐良親王ヲ奉ジテ伊予大洲城ニ入ル。弾正少忠、得能通村、満良親王ヲ奉ジテ、讃岐国長尾城ニ入ル。・・ (西讃府志)
西長尾城主の中院源少将(なかのいんみなもとのしょうしょう)については、太平記を除いては登場する文献もなく、はっきりしたことは何もわからないというのが正直なところである。家系的には「源少将」とあるから村上源氏流中院家であり、村上天皇−具平親王−師房−顕房・・と続く中院正統の血筋である(⇒❡)。播磨の赤松家とは辛うじて繋がっているが、徳川家康ほどではないにしても(⇒❡)、赤松家が村上源氏の流れであるかどうかは現在では疑問視されている。「本朝尊卑分脈」におけるその近辺の家系部分を示したのが図1.である。赤松則村は建武新政の立役者のひとりであるが、立場は後醍醐天皇に冷遇された護良親王に近く、論功行賞でも佐用郡の地頭職しか与えられなかったことに不満を抱き早々と尊氏方に寝返ったのだが、中院定平は、元弘の乱以来、護良親王の側近として活躍し湊川合戦でも新田義貞軍に属して戦うなど、公家とは思えないほどの軍忠を顕した南朝の武将であった(⇒❡)。嫡男の定清は新政で越中守として北陸に赴任するが中先代の乱で戦死し、その後のこの流れは早くに歴史上から消えてしまう。西長尾城の源少将が定清の舎弟の雅平であろうと推察されるのは時期からしても背景からしても妥当とも思われ、郷土史にもそのように記載されていることが多い。ただ、裏付けとなる根拠に乏しいのはいかにも残念なことである。
図1.「本朝尊卑分脈」の中院家と赤松家付近の系図。(中央に赤松則村、やや右に中院雅平;拡大は画像をクリック!)
(「国立国会図書館デジタルコレクション」より転載、一部、合成。)
中院源少将がいつごろ西長尾城に入城したかは明確ではないが、隣の羽床氏が南朝に属していた頃とするのが妥当と思われるので、年表では細川頼春が伊予に攻め入った興国/延元3年の少し前に記載しておいた。時を同じくして後醍醐天皇の皇子2人が四国に下向したとするのが「関城書裏書」(⇒❡)である。これは北畠親房が常陸国の関城で認(したた)めた書状の綴りで一時は偽書ではないかとの説もあったが、文章の格調の高さや正確な内容から現在は一定の評価がなされている。上記の西讃府志のものは、得能通村が満良親王を奉じて讃岐国長尾城に入ったと極めて具体的ではあるが、「群書類従」では「花園宮(満良親王)、四国に着御ス。牧宮(懐良親王)、同ジク四国ニ着御ス。鎮西ニ御下向有ベク云々」とだけあって土居通増や得能通村の記載はない(⇒❡)。「群書類従」が寛政5年〜文政2年(1793〜1819年)の編纂、出版に対し「西讃府志」は天保10年〜安政5年(1839〜1858年)の完成であるから、後者は違う史料や伝承から原文に勝手に付記したようにも思われるが、少なくても南朝の四国、九州への布石として2人の親王下向は事実なのであろう。親王を安全に受け入れるためには事前に地元の勢力を固めておくことは必須であり、近習の公家が束ねとして国司などで赴任するのは十分にあり得ることなので、源少将も羽床氏や阿波の南朝勢力への連携も取りやすいこの地を選んだのであろう。また、このあたりは仲南を経て阿波へと通じる要衝であるばかりか、山越の間道を東にゆけば枌所を経てほどなく香南の安原や東讃へも抜けることができ、親王や脇屋義助らも海路の他にこうした山岳ルートを経由して伊予へと安全に赴くことができたと考えられる。それらの位置関係を図2.に示しておいた。なお、“西長尾”という名称は東讃の“長尾”と区別するためと思われるが、長尾は寒川氏の支配下で細川定禅以来の北朝側であるから、その意味でも明確に区別していたのかもしれない。
図2.西長尾城と南朝方諸城マップ。(原図はYahoo地図;拡大は画像をクリック!)
さて、そうした南朝勢力も脇屋義助の急死や後醍醐天皇の崩御などによって急速に衰えをみせ、羽床氏も北朝側に寝返って苦境に立ったことであろう。それでも20年余り後の細川清氏の白峰合戦までよく持ちこたえたものと感心するが、おそらく清氏に従った十河、神内、三谷などの植田一族が当初から南朝に靡いていたとするのが考えやすいかもしれない。細川頼春の頃の植田氏の動向は不明なことが多いが、昔から“遠交近攻の策”は勢力均衡を保つためには最も効果的であり、東から寒川氏(北朝)、植田一族(南朝)、香西氏(北朝)、羽床氏(南朝)のところ、途中で羽床氏が北朝になったとしても那珂郡の佐伯氏や和気氏などが南朝に近いとすれば源少将が存続できる可能性は意外に大きかったと言えるだろう。残念ながら細川清氏の討死とともに源少将の消息もそのまま途絶えてしまう。「古今讃岐名勝図絵」(梶原藍水著 梶原猪之松訂 高松製版印刷所 昭和5年)には「貞治元年九月 細川頼之に攻められ自殺す。」とあるがどの史料に拠るのかは不明である。しかし、「長町家の由緒」(福家惣衛著 昭和33年((図3.)には、戦後まで西長尾城の近くの長炭に中院源少将の墓があったことが記されている。非常に興味深い記事なので、下にその全文を転載させていただく。
『第五章 中院源少将の墓
南北朝時代南朝の忠臣として讃岐に拠りて孤軍奮闘を続くること二十有余年であったが、正平十七年(西紀一三六二年)(北朝の貞治元年)細川清氏讃岐に来り兵を白峰城に挙ぐるや、これと呼応して一大活躍を期していたが、敵の細川頼之の戦略に乗せられて清氏の滅亡するに至り
西長尾城で戦死を遂げた中院源少将の墓というものが古くから西長尾城の付近にあった。
土地の人々は中ノ院源少将ノ墓であるとして、六百年の久しきに亘る民間伝承として云い継ぎ語り伝えて来たものである。
然るにそれが今回の太平洋戦争終戦前後の大混乱中に譎詐貪利の悪漢の手によって盗取売却されたことは、かえす/\も遺憾千万のことであり、先聖忠臣に対する冒涜であるばかりでなく史跡の破壊であり、文化の煙滅であり子孫として許すまじき悪逆無道の行為であるといわねばならぬ。
墓の所在地は
香川県綾歌郡長炭村大字長炭
字五正寺弐百八番地の弐 墓地壱畝拾六歩
この付近 有名な勤王家の墓地で隣地の
字五正寺弐百七番地の弐山(荒神社)弐畝七歩
この両地に亘り
一、中ノ院源少将の墓 壱基
二、小亀氏の墓 四基
三、五輪塔 六基(何れも高さ五尺七、八寸(一米七十五糎)の立派なものでその時代を示しているもの
四、自然石の墓石 壱基
五、その他の墓石 弐拾余基
これ等の墓石の形式を検討するに古きものは十四世紀のもの(南北朝時代)から十五世紀以下のものである。
その他は鬱蒼として繁茂せる樹木に覆われ、杉樹最も多く大なるは回り七尺以上のもの壱本、四尺以上のもの参本、三尺もの約三十本、百日紅樹約三尺物一本、雑木三十本以上であった。
盗賊はこの大樹に眼をつけ、これを濫伐して売却するを手始めとして、遂に墓石を悉皆取去って売却したものである。
墓地と荒神地であるため殆どその所有権を主張して保護の任に当る者なきため、あれよ/\と驚く中に全部盗伐奪取売却してしまったものである。
右の墓石の中、小亀氏は讃岐橘氏としてこの地方の豪族であり、中ノ院源少将を助けて忠勤を抽(ぬきんで)んでたものである。後、戦国時代に長尾大隅守代々も同じく讃岐橘氏である。
この中ノ院源少将の墳墓と小亀氏の墓地とに利害関係を有する香川県坂出市内浜二七四九の六の鍛川(かじかわ)トメ氏は自分の祖先の墳墓を破壊せられたことに憤慨し、これを告訴せんとしていた。
又一方でその実情をその当時香川県史跡名勝天然記念物調査委員としていた余の許へも知らせて来た。そこで余は中ノ院源少将の苗裔である現大川郡津田町北羽立に住居する長町与彦に通知した。
そこで、昭和二十九年五月八日、長町与彦と私は、同地に至り現地を調査してその甚だしき荒廃に驚き且つ悪漢の無道無法に慷慨禁ずる能わざるものがあった。
戦争に敗れ世道荒廃し人心壊乱したりとはいえ、かくの如く甚だしき惨状に接しては転た浩歎これを久しくして云うべき言葉を知らず、唖然として数刻の久しきに亘り石の如く固く佇立した侭であった。 ・・ 』
本当にそのような事件があったとしたら、誠に遺憾なことで現在はどのようになっているのかも気になるところである。古い地籍や荒神社の情報、さらには「有名な勤王家の墓地」(三好殿山か?)を頼りに改めて実地調査をしたいと思っている。小亀氏については中山城山の「全讃史」に記載があり、岡田唯吉の「綾歌郡ニ於ケル建武中興関係史蹟」(香川県綾歌郡神職会編 昭和10年)にも、長尾の地頭職で大谷氏とともに勤王に勤め中院源少将に殉じたことが詳述されている(⇒❡;国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)。荒神社ではなく天神社の上側に小亀氏の墓地があるとのことで福家惣衛氏の破壊された墓地と同じなのかどうかも興味深い。さらに同書によると、源少将の拠ったのは、長尾大隅守代々の本拠で長曽我部元親の改修した城山頂上(国吉城)ではなく、小亀氏の居城である長尾の東南に位置する鷹丸山の西側尾根上の「金丸城」であったとされ、平時の居館は土器川に面する平地にあり、「町代土居屋敷跡」として「香川県中世城館跡詳細分布調査報告」(香川県教育委員会編 2003年)にも記載がある。おそらく尾根を通じて城山と金丸城は、南北朝時代から連携して当時特有の広域な一大山城を形成していたのであろう。
中院源少将は白峰合戦で討死したが、細川清氏の孫の細川弘氏が寒川郡石田城を源少将の一子(俊平)に与え、西長尾の“長尾”と“町代”を組み合わせて、以後は長町氏を称したという(「金心正義録」(香川叢書第二に所収)など)。江戸時代になって石田から津田に移り、代々、大庄屋として現在まで家系は連綿と続いている。同じ村上源氏の東久世家(⇒❡)とは江戸時代から親交があり、このあたりも長町家を中央の貴族界でも中院家の連枝と認めていた証かもしれない。戦後、長町与彦氏によって長町家文書が「さぬき市歴史民俗資料館」に寄贈されているので、さらなる考証がなされることに期待したい。
蛇足ながら、図3.は「長町家の由緒」(福家惣衛著 昭和33年刊)の表紙。美しい孔版印刷本で“原本校正”の朱筆と“福家蔵書”の㊞がある。父の蔵書の中にあったものだが、香川県下の図書館を検索しても該当はなく、香川県立図書館にも所蔵していないようである。父がどういう経緯で入手したかも不明ながら、小生自慢の稀覯本の一冊となっている。
図3.「長町家の由緒」の表紙。(拡大は画像をクリック!)