【細川頼春、伊予に出陣、世田城陥落。河野通朝 降伏す】

 

南海治乱記・・(暦応)三年に(脇屋)義助四国西国の官兵大将軍を給て伊予の国に下し玉へば、予州の宮方力を得て得能弾正小弼を将軍として大軍を揚げ河野四郎通朝が居城河江に押寄て囲んとす。河野守ることを得ずして退散す。官軍の大将大舘左馬助を以て是を守しむ。河野は建武三年尊氏公西国を攻靡け大軍を揚て上洛の時御方人として攻上り西宮に於て義貞の軍を破し忠戦に由て伊予の守護職に補せられしより以来将軍方なる故なり。河江の城の陥たるに由て阿波の大西讃岐の羽床牒し合して国中を催す。讃州十河十郎三谷八郎神内右兵衛尉をして宮方に服せしめしかば義助讃州へ攻入んとす。然所に新田義助病にかかり予府に於て卒去し玉へば宮方に服従したる者ども燈を消て暗夜をたどるが如し。其此四国の大将軍として将軍家より阿波国に居置れたる細川刑部大輔頼春これを聞て時をば苟且(しばらく)も失へからず此仲達が蜀を成し謀なりとて阿波淡路讃岐の七千余騎を率して伊予国に発向す。阿波の大西讃岐の羽床は累代大剛の者にして宮方にありしを今度頼春礼を厚して将軍方へ招き是に先陣を頼で予州へ押寄せ、土居三郎左衛門が籠たる河江の城を攻らるる。日来義助に従附したる恩顧の兵将、土居、得能、合田、二宮、日吉、多田、三宅、高市等の兵将金谷修理大夫経氏を大将として西伊予の兵船五百余艘に取乗て土居が後詰の為に海上に浮て河江に赴く。中国の軍将将軍方として一千余艘備後の鞆より押出し官軍に向ふ。官軍小兵にして力相当らずと云へども舟師を挑んとす。折節逆風起て吹戻され西伊予に還る。修理大夫其怒に勝へずして勝たる野兵三百余騎必死の出立して千町が原へかけ出す。細川頼春これを聞て七千余騎を率し出立て懸合の戦を致さんとす。互に相進み敵陣を見渡せば渺々としたる原野に中黒の旗一流立て幽に風に飛揚し僅に兵の程三百騎ばかり控たり。頼春諸軍に下知して曰く、当国の兵是ほど少兵なるべしと思ぬ也。必定究竟のものを勝て多兵の中を駆破り大勝軍に近付て引組て勝負を決せんと計たる者と覚ゆるぞ、思切たる少兵を一旦に討んとせば手に余る事有べし、身方の陣を破んとせば破せて然して跡を塞げ、轡を双て懸来らば引退き敵の馬を疲せ打物に成て、一騎かけに来らばあいの鞭打て推戻りに射て落せ、敵疲ぬと見ば新手を以て取囲め、余りに間近く乗寄て敵に組るるな、引くとも敵を見放すな、敵に身方を較れば一騎を十騎に対すべし、飽まで敵を悩せて弊に乗て攻撃べし、などかは勝たざること有べきと委細に手練を牒合して閑に旗を進める。金谷修理大夫是を見て、すはや敵は懸ぞとて少も遅滞せず相かかりに馳て矢一ツ射違る程こそ有けれ、打物に成て真暗(まっくろ)にかかる。細川頼春馬の廻に讃岐国の住人藤の一族五百余騎にて扣たり。兼て定し謀なれば左右へ颯と分る、此中に大将ありとは知らずして三百騎の者ども裏へつと駆抜け二陣の敵に打てかかる、此陣には讃州の詫間香西橘の輩阿州の小笠原相集て二千余騎堂々として扣たり、是大将軍たるべしと中を駆破り取て返て打合引組て指違へ落重て頸を取り一足も引かず戦しが、官兵僅に十七騎に成て敵陣をかけ抜て船にとり乗て備後をさして落行ぬ。同八月廿四日に大舘左馬助が籠たる世田の城を取詰め、讃岐国の住人藤橘伴の党相共にこれを攻る。九月三日の暁、大舘左馬助城門を開て打て出て力戦して死ぬ。岡部出羽守一族も皆戦死して城は陥にけり。是よりして頼春国中の宮方を攻靡け河野が罪あるを赦て本領を還付し兵を引て帰る。其行粧由々しくぞ聞ける。   (伊予国千町ヶ原合戦記;巻之一)

 

予章記・・・・・此比、細川頼春ハ、阿波、讃岐、土佐ノ事ハ給ル。伊予国ニ望ヲ掛ル。内訴ヲ申サルレ共、更ニ公方様御許容モ無リケレバ、下国ノ時ノ事ヲ左右ニ寄セテ取懸ラル。(河野)通朝、弱年ヨリ在国ニテ、公庭疎遠ナリケレバ、申ルベク様モナクテ、只合戦ヲ憑ル也。光明院康永元年、頼春大勢ニテ、石鉄山麓大保木天河寺ニ陳(陣)ヲ取ラレケルガ、或時、千丈原ニ打出テ、河野一族十七人、十死一生ノ日ヲ取テ合戦シ、一人残ラズ討死シタリ。然共、河野一族多カリケル間、北条・吉岡辺迄、度々相戦ヒ利ヲ失ハザル間、暫クハ相支タルニ、京都ハ南方蜂起ノ間、頼春召上ラレ、其後、両方共ニ京都ノ事ヲノミ馳走ノ状、国事ハ差捨ラレル計也。十二三ノ後、東寺合戦ニテ頼春討死ス。・・

 

 

          延元/暦応元年、新田義貞が北陸で討たれ、関東での再起を期して伊勢を出港した北畠親房の大船団も難破して果たさず、南朝は大きな力を削がれてしまった。さらに翌年には後醍醐天皇が崩御し足利尊氏との和睦が永遠に遠のくと、後村上天皇のもとで体制の立て直しが急務となったのである。そのために南朝の勢いが未だ衰えない四国や九州での結束を謀る目的で、先帝より征西将軍に任命された懐良親王が伊予に渡り忽那島に3年ほど滞在、忽那水軍や宇都宮氏とも連絡を密にしながら南朝の回復に努められ、やがて九州へと遷御された。この頃になると小豆島の佐々木(飽浦)信胤(⇒)が南朝となり、伊予国司に四条有資(四条骼曹フ子)、伊予守護に新田一族の大舘氏明(⇒)が任命されるなど勢力も増大し、新たな四国軍の総帥を置くことが吉野朝廷に求められた。そこで急遽、北陸で転戦していた義貞舎弟の脇屋義助(⇒)を呼び戻し、同族の金谷経氏(⇒)らとともに伊予に下向させたのである。ところが、義助はほどなく病魔に冒され、興国元年/暦応3年5月に桜井(越智郡桜井郷)で急死した。まさに南風競わず、吉野方は意気消沈し一気に劣勢に立たされたのであった。(脇屋義助の死は興国3年/康永元年とする説もあり、下達された文書類からそちらが正しそうである。そうすると、この項も1342年にするべきだが、ここでは「本朝尊卑分脈」(図1.)に従い、興国元年5月とした。) 図1.は、同書の新田氏系図の一部。大舘氏はその後、北朝に帰順し足利家の奉公衆として活躍した。大舘持房の娘の佐子(さんこ、さこ⇒)は足利義政の側室となり、日野富子と寵愛を争ったことで知られる。金谷経氏の名前はないが、新田政義の庶子である家氏の子孫とされている。蛇足ながら・・系図の左端には“木枯らし紋次郎”でお馴染み?の上州新田郡を本拠とする得川(徳川)、世良田氏が連なっている。世良田氏の途中から一気に徳川家康まで家系が追記されているのはただただ圧巻で、如何にも“ニタニタ”しげでもある。

 

図1.「本朝尊卑分脈」の新田義貞、脇屋義助兄弟と大館氏明の関係図(右端付近;拡大は画像をクリック!)。

                 (「国立国会図書館デジタルコレクション」より転載、一部、合成。)

 

           さて、義助の死を知った細川頼春は、四国の南朝勢力を一掃する好機とみて直ちに阿波、讃岐の軍勢を揃えて8月に伊予に侵攻を開始した。まず、土肥義昌の立て籠もる川之江城を取り囲んでこれを落とした。これを助けようと金谷経氏は忽那水軍や土居・得能氏の協力を仰いで細川水軍と戦ったが、狂風のために備後まで吹き戻されて惨敗、それでも闘志満々で体制を立て直し壬生川付近(現在の西条市壬生川)に上陸して、新居郡まで進んできた細川軍と再び対峙した。そして両軍は「千町ヶ原(千丈ヶ原)(現在の西条市国安付近か?))で激突する。細川軍7000余騎に対し、金谷軍は300余騎足らずと比較にもならない劣勢であるが、大坂夏の陣の真田軍のように一塊となって敵の本陣に突進すれば、必ずや頼春を討ち取ることができるという後のない乾坤一擲の作戦である。智将の頼春も冷静にそれを見抜き自らは先陣の中に紛れ込んで敵軍を素通し、突進を繰り返して疲れたところを絡めて殲滅しようと謀って作戦は見事に成功する。やがて、わずか17騎ほどとなって全滅かと思われたが、そこは一騎当千の強者揃いで再び敵陣を疾風のように駆け抜けてそのまま備後へと落ちて行った。「南海治乱記」(大部分は「太平記」の転記だが・・)は、この場面を活劇を見るような活き活きとした筆致で描写している。

「予章記」にはこのとき、細川頼春は本陣を大保木の天河寺(てんがじ)に取ったと記載するが、当時の大保木は石鎚修験道がすでに盛んであったとはいえ、余りにも山奥で逃げ道もない“雪隠詰め”のような地勢で、世田山を攻める本陣としては不適ではないだろうか? むしろ小松町の法安寺(周敷郡)とか、大生院の正法寺(新居郡)など平地に近い古代から栄えた天河寺と同じ石鎚別当寺院の方が相応しく、「予章記」に寺名が誤って伝わった可能性もあると小生は感じている。「千町ヶ原」についても、新居郡から進んだ細川軍と壬生川に上陸した金谷軍が激突するとなると、やはり国安よりもう少し南の小松町付近が考えやすく、“天正の陣”(⇒)と同じく野々市原付近が考えやすいのではないだろうか? 「太平記」の「勇猛強力ノ兵共ニ懸散サレテ、南ナル山ノ峯ニ颯ト引テ上リケルガ・・」という文章からも頷けるものがある。(図2.参照)

 

図2.千町ヶ原と細川頼春本陣(推定寺院)の位置関係。(原図はYahoo地図)

 

           「千町ヶ原」の戦いに勝利した細川軍は、続いて大舘氏明が立て籠もる世田城(世田山城⇒)に大挙して押し寄せた。援兵や水軍に見放された城内はすでに絶望的な状況で数十日の籠城の後、最後の吶喊攻撃を敢行して玉砕して果てた。ただ一人、篠塚伊賀守は鉄棒一つを担いで城門を出て、迫り来る敵兵を剛力で蹴散らしつつ今治の浦から因島に悠々と退避したという(⇒)。「南海治乱記」では省略されているが、豪傑伝として「太平記」に詳しいので参考にされたい。一途に死を潔しとする大舘氏明(図3.)と、最悪の状況下でも活路を諦めない篠塚伊賀守、サクッと戦って同胞の世田城には見向きもせずにさっさと備後に去って行く金谷経氏など、気骨さでは何れ劣らぬ板東武者ながらも戦い方には様々なタイプがあるのだな、と感心させられる場面でもある。

 

  

図3.世田城の戦い(左;「愛媛県史談 生徒用」より)と大舘氏明(右;「前賢故実 巻第十」より)。

                                (いずれも、国立国会図書館デジタルコレクションより転載)

 

 

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