【香西五郎、刺殺。六郎を詫間氏に託す。貴布禰神社創建】

 

【南海治乱記】・・・観応年中、細川刑部大輔頼春京都合戦の時、讃州住人香西左衛門次郎家資、鳥羽縄手に於て戦死を遂しかば其子五郎幼少にして家を継ぐ。其氏族家臣密々に会して評議するやうは今天下乱世なれば伯父香西七郎を以て陣代とし家を守べきこと勿論也と計て其母堂に達しが、母堂従ずして曰、父左衛門殿は公儀の為に戦死す。今何の恐あって陣代を立べきや、氏族家臣の大禄を受るは此時の為也。天下に事ある時は五郎を立て大将とし各供奉して事を計んに何の不審きことか有ん乎、五郎が廿歳になるは今の間のこと也、陣代の沙汰に及ぶべからずとて承引せず。其後五郎九月十三夜の月見を催し菩提寺に入て酒宴あり、酒宴酣にして座中皆酸をなす、誰とも知らず五郎を刺殺す。人皆酔狂人ありとて北去(にげさる)、是何の所以と云ことを知らず。其恚て曰,我女性の身なれば刃を取て怨を報ずることを得ず、我荒魂と成て彼等が魂を挫(とりひしぐ)べきことは是我が得たる処也、今見よ今見よ、目に物を見せんとて自殺す。其時三歳の次子あり、乳父加茂大夫と云者懐にして西讃岐詫間氏が宅に行てこれを頼む、詫間氏育して後、大見村を給し大見六郎綾景利と称する者是也。彼母堂悪霊と成て祟りをなし其事を計たる泉房右近太郎藤井八郎二人は立所に大言して罵詈時を踰えず狂死す。氏族家人大に驚き追福を廻向し法事を修行すと云へども止まず、序を追て死亡する者多し、陰陽の博士験者の僧貴を請して祈祷加持を行へども其験なし、泉房小路田所が前等にて霊鬼に行遇死亡に至る者亦許多也。氏族家人相計て此荒魂を神に崇、山端に社壇を造り私に貴布禰の神と諡し毎月の祭祀怠らずして拝祀す、佐料村寺屋敷の後に五郎が廟を築、霊室を造て渇仰す、是より霊気自然に和同して祟止ぬと也。霊室屋敷貴布禰の社壇の名ばかりは今に存せり。然して将軍家より香西家相続のこと家資が伯父七郎資邦を以て家督せしむべき由、命を賜て安堵す。七郎是より家衆を統領し細川右馬頭頼之に従て忠勤をなす。其後、将軍義詮公南方征伐として神南に御陣を居玉ふとき南方の敵遮て夜戦を催し将軍家の御陣を襲ふ、香西七郎夜守を奉て敵を拒ぎ義詮公の御陣を退け危難を脱し奉る也。是に於て香西七郎戦死す。香西氏二世戦場に死を致を以て将軍家の御感情深くして禄を世々にす、阿讃両州は細川氏の幕下たる故に国内の兵乱なくして京都の役に奉仕する也。     (香河郡山端村貴布禰神社記;巻之一)

 

           これは讃岐藤家に伝わる怪異譚である。讃岐藤家とは大治年間(1130年)の頃、藤原(中納言)家成が讃岐国司に補任され、綾郡の大領貞宣の娘に産ませた子が藤大夫章驍ナその子孫が数々に分かれてそのように呼ばれている。章驍フ孫の代に羽床、香西、新居、福家、大野などに分流し、最盛期には阿野、香川郡を中心に63家まで数えるに至ったという(⇒。ここではその系譜については詳しくは述べないが、「香西史」(「国立国会図書館デジタルコレクション」にて公開⇒)の第八編には系図と代々の略伝について詳述されているので参考にされたい。香西系図を結合したものを図1.図2.に挙げておいた。本項に関係するのは図2.で主要人物に赤傍線を入れておいた。

余談ではあるが、家成晩年の頃といえば保元の乱(1156年)で崇徳天皇の配流が大きな出来事として知られるが、綾貞宣と天皇のお世話をした在庁官人の綾高遠(⇒)との関係である。20年ほどの隔たりがあり前者は綾大領、後者は散位(無位無冠)であるから別人であることには違いないが系統としては同じ綾氏であることは疑う余地はないであろう。「群書類従」に掲げる綾氏系図は綾氏とはいうものの家成以降は讃岐藤家の系譜が中心であり、貞宣や高遠の後裔については何もわからない。一方、崇徳院と綾高遠の娘の系統が林田氏として綾北を中心に繁栄したのも事実で、雲井御所を守衛してきた綾家は江戸時代に高松藩主松平頼恕が林田氏の正統を探し出して御所の傍らに住まわせたと伝えている。ちなみに小生の母方は林田氏の末裔で明治時代までは綾姓を称しその系図を所持している。綾氏にも讃岐藤家以外の流れが多いことも認識しておく必要があるだろう。後で登場する三野大領家も、早くに中讃を離れて三野郡で繁栄した綾氏の一族なのである。

 

図1.香西家系図の前半。香西惣領家は家成曽孫の資光の子の資村(図2.)より始まる。(拡大は画像をクリック!)

                      (「香西史」より転載、一部合成。 国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)

 

図2.香西家系図の後半。図1.の左端より続く。本項の主要人物に赤傍線を入れた。(拡大は画像をクリック!)

                          (「香西史」より転載、一部合成。 国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)

 

           さて、「香西史」によると、讃岐藤家の創始となる藤原家成は藤原忠実とは懇意であり鳥羽上皇の側近でもあった。ただ、忠実三男の頼長とは意見が合わず屋敷を焼き討ちされたりしている。崇徳院や頼長が滅んだ保元の乱以降、平清盛とも親交があったが三男の成親は鹿ヶ谷の陰謀に加担し備前で殺害されている。讃岐藤家第三代資高の嫡男、親高も成親に従ったため京で殺された。この頃は中央の藤原氏との関係はまだ強かったと考えられる。そうした関係からか四男の資光は源氏に属して備中や屋島の戦いに参戦し頼朝から綾郡の守護識(分郡守護?地頭職?おそらく郡司職)を与えられた。資光の子らが福家、新居、西隆寺、香西へと分かれ、特に香西氏初代に数えられる三男の資村は承久の乱で武家方につき、宮方の羽床氏から惣領家は香西氏に移った。香西第三代の資茂は北条時頼から瀬戸内海の警護を命じられ、のちの香西水軍の一翼を担う小豆島の島田、直島の高原、塩飽の宮本、吉田、妹尾などはこの庶裔と伝えられる。第七代の親茂は細川定禅に属し武功を立て、次の資忠、資時も細川頼春に従い羽床氏を抑えて讃岐の武家方支配に大きな貢献をした。そして第十代家資は図らずも頼春とともに京の正平の一統に伴う混乱で七条大宮で討死し(⇒、その相続を巡って事件は起こるのである。

 

           家資には五郎、六郎の二人の息子があったが未だ幼く、一族が会して家資の叔父にあたる香西七郎(資邦)を陣代に立てることに決したが、家資の未亡人はこれに猛反対し、五郎が家督を継ぎ家臣が従えば良いだけでわざわざ陣代を立てる必要はないと突っぱねた。しかし、この頃の幕府は観応の擾乱が終息したとはいえ尊氏庶子の直冬が都を脅かし、南朝側の攻勢も強まっていたので未だ幼少の大将を陣頭に立てて戦うことは現実的に不可能で、陣代を立てるよう幕府側の要請も強かったのだろう。ところが翌年の正平8年9月、十三夜の酒宴の席で何者かが五郎を刺殺したのである。そのあと未亡人がすぐに近くの池(貴船池)で入水自殺したところをみると、家臣の大半はすでに資邦派が占めており、犯人の追求や残った六郎の擁護ができる状態ではなかったと推測される。まだ3才の六郎にも危険が迫っていたので養育係(乳人)の加茂太夫なるものが懐に抱いて、母の里方である三野郡の詫間氏に保護を依頼したのである。未亡人の今際の際の「我女性の身なれば刃を取て怨を報ずることを得ず、我荒魂と成て彼等が魂を挫(とりひしぐ)べきことは是我が得たる処也、今見よ今見よ、目に物を見せん。」の言葉にはさすがに凄みがあり、香西成資の筆の冴えが感じられる描写でもある。その後、香西家では怪異が続き、資邦についた泉房右近太郎、藤井八郎の二人はあらぬ事を口走りながら狂死し、怨霊を恐れた家臣は加持祈祷を行うもさらに験なく死亡する者は増える一方であった。そこで祟りを鎮魂するために佐料の養福寺に埋葬された五郎の墓に毎日香華を手向け、近くに一社を建立して“貴布禰”の神として祭祀を続けると次第に霊障は和らいでいったという。

こうして創建された神社が貴船神社で、治乱記では一時、廃絶に近い状況もあったようだが今も立派な社殿が残り訪れる人も多い。ただ何故、“貴船”と称するかはわからず、未亡人の名前が“キフネ”であったとする書もあるが俄には信じがたい。元々、京都の貴船神社は水を司る神でおよそ怨霊とはほど遠いものである。怨霊だけ祭るなら“御霊神社”とか“若宮”などとするのが妥当とも思われ釈然としない。「讃岐国神社考」(秋山惟恭著 藤田遷善堂 昭和11年)にも「五郎の母の死霊祟をなせしはさる事なれども、貴船の神と祭るべき由有べからず。貴船社の山城国にある貴船軻遇突智命を祭りたる社なり。是を遷せしなるべし。假令香西氏の事實にさる事ありしならば本貴船社ありし地に其霊を祭りしなるべし。」と疑義を入れている。あるweb(⇒)には京都の貴船神社と呪いを関係づけているものもあるが信じるかどうかは読者の判断にお任せしよう・・呪いの張本人であるべき資邦は直接に取り殺されることはなかったが、刺殺から2年後の正平10年、直義養子の足利直冬が南朝と連動して尊氏に抗して上洛の折、直冬方の山名時氏と義詮が対峙した“神南の戦い(⇒”であえなく戦死した。これも呪いの一環と捉えるべきであろうか?・・

 

図3.昭和10年頃の貴船神社。社殿は綺麗に改装されているが周囲の佇まいは今も変わらない。

            (「香川県神社誌 上巻」(香川県神職会編 昭和13年)より転載;国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)

 

           一方、危機を脱した次男の六郎は母方の里の詫間氏のもとで養育され、のちに大見(現 三豊市三野町大見)の地を与えられて大見六郎綾景利を名乗ったという。詫間氏は元々、三野大領を務める綾氏で藤原家成が入る以前にすでに西讃で勢力を張っていた綾一族と考えることができる。「南海通記」や「西讃府志」(⇒には悪魚退治伝説の武殻王(讃留霊王、讃王⇒)を祭る嶋田寺の過去帳に、三野郡大領の綾高隼が藤原純友に靡いて朝廷に反逆したが、後に悔いて罪を謝したために死一等を減じて信濃国小県に配流され真田氏の祖となったことが記されている。家紋の六文銭は、高隼が死装束に六文銭を頸にかけて謝罪したことに由来するという。高隼のあとは同じ綾氏族の高親が任じられ、三野氏や詫間氏の祖となった。詫間氏は細川頼之の頃に廃絶したため関東から香川氏が入部して西讃を統括したが、三野氏は香川氏の重臣として戦国時代を生き抜き、香川氏は滅びた後でも生駒氏の家老として五千石で取り立てられた。大見氏のその後の動向は不明だが、「香川県城館跡詳細分布調査報告」(香川県教育委員会 2003年)の「貴峰山城跡(大見城跡)」の項に「戦国期に大見六郎(おそらく景利の後裔)は香川氏の支配にあり、この付近一帯を統治し、「大見衆」と称されていたであろう。(秋山家文書)」と記載されている。このように六郎の家系は香川家臣としては存続したと考えられる。図2.の「香西家系図」には「(六郎)の子 三野県大見邑ヨリ山田郡田井邑ニ来住シ重信ノ名主ト為ス。」とあるがやや小さな字で記され、“子”とはあるものの諱もなくおそらく江戸時代になっての追記で、ふたたび香西の地に戻ることはなく、その後の香西惣領家は資邦の系譜が引き継いでいくのである。

 

 

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