【細川頼春、香西家資ら、七条大宮で討死】

 

南海治乱記・・観応二年辛卯に方て尊氏卿と直義と不和に成て直義入道恵源、南方に参り尊氏に敵す。恵源北国の戦敗て鎌倉に入る。尊氏是を制せんとて東国に赴玉ふ。細川頼春、阿波讃岐の兵八千余人を以て京都の守警をなす。文和元年壬辰の二月、南方の和田楠以下、京師の微勢なるを察て二万余兵を揚て攻来る。頼春、兵少なりと云へども鳥羽縄手に出向て防戦す。讃岐国の住人香西左衞門次郎家資二千余人を以て先鋒となす。敵大兵にして力相当らず、鳥羽縄手に於て戦死す。阿波の阪東阪西小笠原等一場必死の戦をなすと云へども兵衆の多寡伴和らざれば力相当らずして細川頼春ここに於て戦死し玉ふ。天下の人、是を惜まずと云ことなし。     (細川刑部大輔頼春京合戦記;巻之一)   

 

太平記・・・・之ニ依テ義詮朝臣、法勝寺ノ恵鎮上人ヲ使ニテ、「臣不臣ノ罪ヲ謝シテ、勅免ヲ蒙ルベキ由申入ルゝ処ニ、照臨已ニ下情ヲ恤(めぐ)マレ、上下和睦ノ義、事定リ候ヌル上ハ、何事ノ用心カ候ベキニ、和田・楠以下ノ官軍等、混(ひたすら)合戦ヲ企アル由承リ及ビ候、如何様ノ子細ニテ候ヤラン。」ト申レタリ。主上直ニ上人ニ御対面有テ、「天下未ダ恐懼ヲ懐ク間、只非常ヲ誡メン為ニ、官軍ヲ召具サルルトイヘ共、君臣已ニ和睦ノ上ハ更ニ異変ノ義有ルベカラズ。縦ヒ讒者ノ説アリ共、胡越ノ心ヲ存ゼズンバ太平ノ基タルベシ。」ト、勅答有テゾ返サレケル。綸言已ニ此ノ如シ、士(子)女ノ説何ゾ用ル処ナラントテ、義詮朝臣ヲ始トシテ、京都ノ軍勢、曽テ出抜ルルトハ夢ニモ知ズ、由断シテ居タル処ニ、同(二月)廿七日(史実は二十日)ノ辰刻ニ、中院右衛門督顕能、三千余騎ニテ鳥羽ヨリ推寄テ、東寺ノ南、羅生門ノ東西ニシテ、旗ノ手ヲ解キ、千種少将顕経五百余騎ニテ、丹波路唐櫃越ヨリ押寄テ、西ノ七条ニ火ヲ上ル。和田・楠・三輪・越知・真木・神宮等、其勢都合五千余騎、宵ヨリ桂川ヲ打渡テ、マダ篠目ノ明ヌ間ニ、七条大宮ノ南北七八町ニ村立テ、時ノ声ヲゾ揚タリケル。

         東寺・大宮ノ時ノ声、七条口ノ烟ヲ見テ、「スハヤ楠寄タリ。」ト、京中ノ貴賤上下遽(あわ)テ騒デ、事斜ナラズ。細川陸奥守顕氏ハ、千本ニ宿シテ居タリケルガ、遙ニ西七条ノ烟ヲ見テ、先東寺ヘ馳寄ラント、僅ニ百四五十騎ニテ、西ノ朱雀ヲ下リニ打ケルガ、七条大宮ニ(ひかえ)タル楠ガ勢ニ取籠ラレ、陸奥守ノ甥、細河八郎矢庭ニ討レケレバ、顕氏主従八騎ニ成テ、若狭ヲ指テゾ落ケル。細河讃岐守頼春ハ、時ノ侍所也ケレバ、東寺邊ヘ打出テ勢ヲ集ントテ、手勢三百騎許ニテ、是モ大宮ヲ下リニ打ケルガ、六条邊ニテ敵ノ旗ヲ見テ、「著到モ勢汰(せいぞろい)モ今ハイラヌ所也。何様マヅ此ナル敵ヲ一散シ々サデハ、何クヘカ行クベキ。」トテ、三千余騎罄タル和田・楠ガ勢ニ相向フ。楠ガ兵兼テノ巧有テ、一枚楯ノ裏ノ筭(さん)ヲ繁ク打テ、階ノ如ク認(こし)ラヘタリケレバ、在家ノ垣ニ打懸々々テ、究竟ノ射手三百余人、家ノ上ニ登テ目ノ下ナル敵ヲ直下シテ射ケル間、面ヲ向ベキ様モ無テ進兼タル処ヲ見テ、和田・楠五百余騎轡ヲ双テゾ懸タリケル。讃岐守ガ五百余騎、左右ヘ颯ト懸阻テラレ又取テ返サントスル処ニ、讃岐守ガ乗タル馬、敵ノ打太刀ニ驚テ、弓杖三杖計ゾ飛タリケル。飛ブ時、鞍ニ余サレ真倒(まっさかさま)ニドウト落ツ。落ツト均ク敵三騎落合テ、起シモ立ズ切ケルヲ、讃岐守寐乍ラ二人ノ敵ノ諸膝薙デ切居ヘ、起揚ラントスル処ヲ、和田ガ中間走懸テ、鑓ノ柄ヲ取延テ、喉吭(のどぶえ)ヲ突テ突倒ス。倒ルゝ処ニ落合テ頸ヲバ和田ニ取レニケリ。  (巻第三十;吉野殿、相公羽林ト御和睦事 付住吉松折事)

 

 

         正平の一統(⇒)で、背後の南朝勢力を懐柔できた?と確信した足利尊氏は、義詮と一部の兵力を京に残し直義追討に鎌倉へと出発する。それを見届けた南朝は、年の明けた正平7年2月に後村上天皇の京への還幸を開始し19日には男山八幡宮まで進み、北畠顕能、楠木正儀、千種顕経その他の兵七千余騎がその警護に当たった。和睦がなっているとはいえ、昨日まで敵であった何千もの大軍が京に迫っている訳であるから義詮もさすがに不安になり法勝寺の慧鎮上人を南朝へ使いに立てたところ、単に人心を鎮めるための用心であるとの後村上天皇の勅答を得て油断していたと「太平記」には記されている。ところがそれから数日もしない間に南と西から南軍が京に乱入したのである。明らかに和睦の一方的な破棄であり、義詮も愕然となったことであろう。尊氏のいない間に京を占領してまず義詮を討ち、勢力を整えて兄弟喧嘩で消耗した足利家を殲滅するという戦略は確かに良い考えではあるが、些か信義に悖るという誹りは免れない。しかし、南朝にしてみれば、直義が南朝に下った時もその場しのぎの策謀に過ぎなかったのだからお互い様だと突っぱねる気持ちも強く、足利を取り込んでの国政などは最初から眼中にはなく”信義”とか“並立”という意識さえそこには存在しなかったのである。

         さて、南の大軍に対して義詮軍は極めて劣勢であり、その上、南と西から侵攻されたので桂川に沿って南北に長い防御線を張らざるを得ず、親衛隊の細川軍も苦戦を強いられた。まず一時的に直義に靡き、再び尊氏に帰順した細川顕氏(⇒)はあっという間に打ち負けてそそくさと若狭(近江か?)に向けて遁走し、細川頼春の讃岐国家臣、香西家資(⇒)も南の鳥羽縄手で討死した。頼春は東寺北の七条大宮で和田・楠軍と激突する。「南海治乱記」ではその戦死の模様を一文でさらりと流しているが、「太平記」ではあたかも絵巻物を見るように詳細にその最期が描かれている。南軍の使用する一枚楯の裏には“”(算木のような細長い木)が梯子のように打ち付けられており、コンパクトな作りながらそれを足がかりにして塀や庇によじ登り高所から弓を射かけることができた(図1.参照)。その雨矢で頼春の前進が阻まれると同時に馬が太刀を受けて跳ね、頼春は不運にも落馬してしまった。地面に転がりながらも雑兵の膝を払い起き上がろうとするところを敵の鑓に喉を突かれて絶命したのであった。細川軍の総崩れで義詮は僅か100騎余りとなって近江に向けて落ちてゆくしか術はなかった。

 

図1.CDは置楯、EFは手楯と説明にある。一枚楯はおそらくEのような形状であったのだろう。

  日本ではヨーロッパのような楯と剣を一緒に持つ習慣は少なかったが、南軍のは意外に独創的かも?

                    「日本歴史考古学」(後藤守一 四海書房 1940)(「国立国会図書館デジタルコレクション」より転載)

 

         その後の経過は“正平の一統”で述べた通りであるが、しばらくの間、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と廃太子直仁親王は賀名生に幽閉されてしまう。光厳上皇などは鎌倉幕府滅亡時には六波羅探題の北条仲時、時益らと京を脱出し近江馬場にて北条方432人の自害を目の当たりにし、建武新政では廃位されるが、足利尊氏に擁立されて北朝皇位に返り咲いた。と思えば、正平の一統で尊氏に裏切られて再び院政廃止となり、挙げ句の果てに遠く賀名生まで南朝に拉致させてしまう始末。その後、北朝が復活し帰京するが深く禅宗に帰依し丹波に隠棲するという波瀾万丈の生涯であった。以後の皇位継承は代々光厳天皇の血統であるが、明治になって南朝が正統とされると再び廃位されるという泉下でも憂き目に会っている。隠岐配流から復活し再び吉野に遷幸される後醍醐天皇の生涯も起伏が激しいが、光厳上皇はそれにも増して激動の一生であったということができよう。

 

         この項では、頼春周辺の家系について再度、見てみることにする(図2)。建武新政当時、尊氏に従って活躍したのは公頼と頼貞の子息たちであった。公頼についての事績は伝えられていないが、出自の細川郷に近い愛知県豊田市の臨松寺(⇒)には父の俊氏と並んで墓石がある。頼貞は中先代の乱で病のため逃げることができず北条方の手にかかることを恐れて自害したという。墓は香川県の宇多津にある(⇒)。公頼の息子が和氏、頼春、師氏の3兄弟である。新政では鎌倉に残る尊氏嫡男の千寿王に仕え、新田義貞と諍いを起こすこともあったが三人団結して義貞勢を圧倒した。建武3年の尊氏都落ちに際しては、3兄弟揃って四国に渡り阿波の秋月庄(徳島県阿波市土成町秋月)を本拠に尊氏東上を側面から支援した。その後は上京してそれぞれ幕政に参画したと考えられる。晩年の和氏は秋月に隠棲して悠々自適の生活を送り墓石も秋月に残されている。次男の頼春は正平の一統とその後の混乱で上記の如く都で討死し、頼之が家督を継承する。三男の師氏も兄達に従って尊氏を支え、南朝に寝返った小豆島の飽浦(佐々木)信胤を攻めてこれを屈服させる活躍を見せ、師氏の家系は代々、淡路守護に任じられて7代目の尚春が三好之長に滅ぼされるまで現あわじ市の養宜館(やぎやかた)を居館とした(⇒)。和氏の嫡男が清氏、頼春のそれが頼之で、10年後の白峰合戦によって和氏の嫡流は没落、頼之とその兄弟の系統が細川家主流となるのである。

         一方、公頼の弟の頼貞の嫡男が顕氏である。新政時には弟の直俊、定禅なども活躍したが早くに死亡したようで公頼の如き家系の拡がりはあまり見られない。顕氏は讃岐、土佐国守護に任ぜられ、河内、和泉両国の守護も兼ねたが楠木正行との戦いに破れ畿内の二国は解任され高師泰に取って代わられた。観応の擾乱では、高一族への反感と父の頼貞が舎弟の血筋であるという負い目からか一時、尊氏舎弟の直義に靡き、清氏や頼春の追討を受けるがほどなく尊氏に帰順している。頼春が討死した後は義詮とともに京都を奪還するための中心的な役割を果たしたがその年の7月に死去した。残念ながらその死因については明らかではない。顕氏のあとは養子の繁氏が継いだが、崇徳院の祟り?を受けて狂死したと伝えられる。これについては「太平記」に詳しい記載があり、項を改めて述べることとする(⇒;工事中)。

なお、当時の細川家の墓所は各所に散在していて不明なものも多い。秋月城には和氏の菩提寺の補陀寺跡と宝篋印塔の墓石が確認されるが、頼春のものは見当たらない。後年、本拠地が秋月から勝瑞に移り、頼春の法名に由来する菩提寺の光勝院も秋月から現在の鳴門市大麻町萩原に移転し頼春の立派な墓石も境内の一角にあるが、当時のものではなくあくまでも後年の供養塔であり、骨は今も秋月に眠っているとみるのが妥当のようだ(⇒)。その頃、清氏の家系はすでに没落していたので和氏の墓も秋月にそのまま放置されたのかもしれない。

         この細川公頼の家系、つまり室町時代に最も発展を遂げた阿波守護家については、「阿波細川氏の研究」(若松和三郎著 戎光祥出版 平成12年)に非常に詳しくこの方面の必読の書でもある。小生も各所で参考にさせて頂いた。ここに著者の若松氏に対しこころから敬意を表する次第である(図3)。

 

図2.細川氏の系図(⇒)(部分)。主要な人物に赤傍線を入れた。(「尊卑分脈」より抜粋)

                        (国立国会図書館デジタルコレクションより転載、一部合成)

 

図3.「阿波細川氏の研究」(若松和三郎著)の表紙。

 

 

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