【河野通堯、宮方に参するの記】
南海治乱記・・・貞治二年癸卯春、細川頼之大兵を挙て予州を攻て平均ならしめ仁木兵部大輔義尹を伊予の守護代として下向せしむ。然も伊予の者ども一向に同心せずして一揆を起し城々に楯籠る河野通堯は去る二月の戦に破て筑前国宗像郡大島に着て太宰府に使者を通じ、征西将軍宮の御方に参べき由を申す。親王悦し玉ひて即召寄られ名字を賜て通直と号し西海上の警衙を令せらる。夫より肥後国へ行て菊池肥後守武敏が力を假て本国へ帰参せんことを希ふ。武敏領掌して兵を加へ豊州に赴しむ、即佐伯に陣を取り、本国に通て帰国せんとす、国中の氏族郎従一揆を起し高尾の城に籠る。仁木兵部大輔阿讃の兵を以て攻寄る、五月廿日高尾城の大将、大野左衛門尉、森山伊賀守戦死す。
同六月に河野通直、豊前国根津浦より出船して予州御津の浜に渡り氏族郎従八百余人馳来て其三千七百余人に成ぬ。同八日同国松崎の浦に上り山野一片に陣を取る、国中の宮方土居、得能、吾川、山方、岩屋等七千余人に成、花見山に陣を取り、将軍方より大空に居置たる宍草出羽守を攻落し、勝鬨を揚て扣たり。仁木兵部大夫義尹、小笠原左近将監盛衡、一万余兵を以て鴨部の庄に馳向ふ、河野遮て夜討し伐崩す。仁木氏、大江の庄に退戦を企んとす、国人先君の好みを思て河野方に通ず。仁木方謀洩て戦備をなすこと能はずして九(乃)万と云所へ引退き兵を退んことを議定す、然して西條表へ打出る処に能島の賊船ども、上方兵衆利を失て退くと聞て来て賊をなす。故に乗船ならずして諸船を讃州宇足津へ廻し兵衆は陸路を経て讃州へ引取る。
河野方の者ども、後ろを圧て来ると聞しかば其退口煩乱すと聞ける。仁木義尹、宇足津より乗船して京都に還り、阿讃の兵は其郷里に帰る。此故に伊予国の宮方、再発して国中一統す。肥後の菊池と牒合して征西将軍宮を君とし相倶に援て国を守る。石見国は足利義冬を大将として三角、益田、成合等、国の隙を窺ふ、是に由て四国九州の宮方蜂起を定んが為に将軍家より河野が先非を赦宥あって御教書を下て本領安堵の御判を賜り、伊予国の逆乱静謐す。四国の総括は細川頼之に命ぜられて武家に一統せしむる所也。 (河野通堯参宮方記;巻之一)
予章記・・・・・同(正平)廿三年(貞治六年也)、山方退治ヲ為ス。仁木方大将ニテ宇和、喜多両郡ヘ馳向フ、然共大田ノ居ニ相随ザルハ河野一族、吉岡方始ト為シ宇和山方ニ居ス人々、山方、泉、大野、森山、伊賀守等ナリ。四月、大田陣落ス。軈テ鎮西ヘ注進ス。通直、御渡海ノ事定有ルベシ。亦佐伯豊前ヘ参ル。然雖モ御暇給ズ、数日ヲ越テ六月始メテ御暇給テ豊前根津ノ浦御出、同四日(今岡)通任ガ船ニテ御乗初也。船中ノ御伴、大内式部少輔・富岡尾張守・大内九郎左衞門尉・栗上延吉等也。同十七日御出御、伴ハ正岡十郎入道・舎弟中務丞尾張守・大田四郎左衛門尉・栗上中川十郎入道・子息隼人助純阿・舎弟兵部少丞・勘解由左衛門尉・浅海氏・富岡氏・重見氏・庄帯刀大輔・房窪十郎左衛門尉・舎弟弾正・尾越蔵人左衛門四郎・難波弾正・池内孫太郎・浅海兵庫助・正岡大能掃部助・大窪左京進・舎弟蔵人丞・多賀谷修理亮・小山兵庫助・高山雅楽助・刑部宮崎宮内丞・子息孫七郎・大内大蔵少輔・同九郎左衛門尉・中大四郎左衛門尉・福角与四郎・日向六郎・須保木将監・高尾八郎左衛門尉・大蔵修理亮・桑原刑部少輔入道・同左京亮・日吉兵部丞・上野兵庫允・山越将監・垂水図書・左衛門尉・施田左京亮・三郎左衛門尉・中子三郎左衛門尉・牛淵美作守・同孫六・白石三郎左衛門尉・同刑部丞・中次三郎兵衛尉・宅間孫七郎・渡邊又次郎・同彌三郎・志津川修理亮・平井左京亮・同大炊介・堀池雅楽助・垣根川得久三郎・江戸中津・同兵衛九郎。
筑紫ニテ当参ノ人々ニハ、箱川又太郎兄弟・伊東・湯浅・馬場・松永・其外数輩。同廿日、周防屋代島ニ御着也。爰ニテ戒能参リ諸方ノ御計策。同廿六日、二神、南方呉ヨリ参ス。久枝・正岡、能美ヨリ参ス。久津郡衆・畑見、屋代ヨリ参ス。中子類・宇野左京亮・池田兵庫允等相加テ、船三十余艘ノ中二百余打立チ、同卅日、松崎(松前)ヘ取上ル。即完草入道父子三人、国人ニハ土居面々三百余騎ニテ馳向フ。未時ヨリ合戦始リ忽ニ勝利ヲ得、山本四郎以下数輩討取ル。即温泉ニ陣取由聞ヘシカバ、夜討有ベキ支度ト云ヘ共、堪ズシテ大空ヘ引籠ル。吾河・黒田・岩屋谷衆最前ニ馳参ズ。閏六月四日、松崎ヨリ船陸二手ニテ福角ニ発向ス。其夜久万越ニ陣取ル。通任ハ陸ノ御伴也。彼此馬上六十余騎、具足四百八十余ト聞ユ。五日、又福角ニ発向ス。同八日、花見山城ニ攻陣取ル。西園寺山方衆相加ルノ間、其勢雲霞ノ如シ。同十一日、大空城ヘ正岡六郎左衛門尉忍テ入テ打落ス。同十三日、夜、完草入道父子若党六人自害ス。国人等六十余人籠リ難ク、或胃ハ降参シ或ハ没落シ畢ンヌ。同七月十七日、花見山城降参ス。少々残リ留ル者ハ久枝四郎左衛門入道、与利ナドハ道ノ口ヲ乞テ退出ス。其後難波、正岡ノ人々皆参ス。
同日、仁木大将ト為テ野々口ニ打出、当方打向フ可キ処、恵良城ニ望月六郎左衛門尉・松浦・浅海・尾越等楯籠ル。其外乃間・多賀谷彦四郎・宇佐美等有ルニ依テ南山城入道南面ニ陣ヲ取ル。北面ニハ陣ナシ。能島衆、陣ヲ取ルベク仰セラルト雖モ大畧斟酌ス。庄帯刀左衛門尉ヲ以テ通任調法スベキ由仰出る間、兎角申誘(あつかふ)テ、同十八日、浅海口ニ陣ヲ取シム。其後、福角ニ御立有リ。此方一揆衆・玉井入道父子・大野八郎左衛門尉兄弟・村上・山内・池内・櫛戸・通任也。同九月六日、府中ノ敵、佐波ニ数輩ヲ引率シ菊万ニ打越シ高山ニ陣取リ既ニ難儀ニ及ブノ由、得居・正岡・東得・重長左近方ヨリ注進ス。即チ馳帰リ合力有ル可クノ由仰ラルノ間、返リ向処ニ鴨部・大井・乃万邊、後攻トテ騒動ス。終日合戦シ敵少々打取テ府中ヘ追返ス。両方引退ク処ニ、十日佐波ヨリ重テ勢越テ高山ヲ取リ切ル。籠峯ニ陣ヲ取リ、同十九日、夜討シ一陣ニ追落ス。故ニ府中衆十四人討取ル。味方ニハ大籠蔵人一人討死ス。同十三日、野々口ヨリ敵千騎計ニテ打下テ、八蔵ニ陣取ルベキ支度也。味方ハ浄土寺ヨリ出合テ合戦シ敵数輩打取テ、仁木ヲ始メ方々ニ退散ス。同十六日、恵良城衆、道口ヲ乞テ退出ス。村上・山内・池内・須佐美等ガ籌策ニ依テ也。同廿九日、御出府、然ト雖モ佐波木梨入道、城ニ有テ中道前手向ニ越智降参ス。
正平廿四年(応安二年也)、新居郡発向ス。宇摩郡御出座。生子山松木、宇高少々参ス。同八日、細川典厩大将ニテ向フベクノ間、生子山ノ一城(一條)修理亮、河野家御内ノ人ヲ相副ヘ籠ラル。只式部少輔等計リ御供也。九月九日、横岡ニ御陣取ル。十月廿一日、鹿場御陣也。九月十九日、横岡ニ御陣。其時ノ敵、鴨河端福武ニ陣取ル。同霜月九日、満願寺前ニ近ク陣ス。十三日、北條ヘ中入ル。即チ此方ヨリ夜討スト云へ共破ルヲ得ズ。同十四日、鹿場高外木ヘ曳籠リ額峯ニ陣取ル。敵即チ襲来ケルニ十六日、合戦シ大手搦手両方ナガラ打勝チ畢ンヌ。(爰ニ僧有テ能島城ヘ来テ此子細語ケレバト云フヨリ是迄、今岡陽向軒ノ注シ置ク分ヲ写セリ。)・・・(「群書類従 第拾四輯」(経済雑誌社 明治27年)所収;国立国会図書館デジタルコレクションにて公開)
貞治3年(正平19年)11月、河野通盛、通朝父子を世田山城に葬り、翌年に子息の通堯を伊予から駆逐した細川頼之は、しばらく伊予府中(おそらく今治市桜井付近)に在駐し戦後処理に当たった。頼之が管領となって上京すると幕府は応安元年(正平23年)に仁木義尹を伊予に派遣した。仁木氏は細川氏と始祖(源義康)を同じくする清和源氏の名族で鎌倉時代からの足利氏被官である。仁木頼章は足利尊氏に従い高師直のあとに執事となるなど幕府の中枢で活躍し、弟の義長も頼章亡き後に兄と同じく執事を務めたがその驕慢な性格もあってか、露骨な専横ぶりが細川清氏や畠山国清の倦むところとなり嫡子頼夏による将軍足利義詮の取り込みにも失敗して伊勢国に下った後、南朝に帰順し急速に勢力を失った。頼夏は系図にもあるように実は細川和氏の子(清氏の実弟)で頼章の猶子となり、代わりに頼章の実子の義尹が頼夏の猶子となって嫡子となった。頼夏はその生い立ちもあってか追々細川清氏に従ったために没落したが、義尹は一貫して幕府側に付き頼夏とも義絶し頼之の信認も厚かったために、河野なき後の伊予の仕置きを任されたのだろう。ただ、それまであまり馴染みのない国で河野氏の残党も多く、特に“山方”と称する中予以南の森山氏(大洲)や大野氏(久万)、広義には西園寺氏や宇都宮氏も抵抗勢力に属して仁木氏の威光は甚だ弱いものであった(⇒❡)。ちなみに後々、三好長治から逃亡する細川真之に従う仁木伊賀守も丹波仁木氏の系統で、中央では没落したものの同族ということで代々、阿波細川氏の家臣として存続していたのかもしれない(⇒❡)。
図1.仁木氏の系図(⇒❡)(部分)。系図に余り拡がりはみられない。(「本朝尊卑分脈 第10巻」より抜粋)
(国立国会図書館デジタルコレクションより転載、一部合成)
一方、伊予から九州に逃れた河野通堯は同年8月には太宰府の懐良親王に謁見し南朝に帰順、後村上天皇から伊予国守護に任ぜられ諱を通堯から通直に改名した。後ろ盾となる菊池武光に従って武力を蓄えるとともに四国に帰還する機会を虎視眈々と窺っていた。折しも貞治6年(正平22年)には、細川頼之が義満の管領となって上京し讃岐は弟の頼有か頼元が留守を護っており幕府から派遣の仁木義尹も山方との戦いに劣勢でその間隙を縫って、翌応安元年6月に水軍の今岡通任や村上義弘の全面的な支援の下で豊前より屋代島を経て中予の松前(松崎)に上陸した。その後の戦闘に現れる地名を図2.に示したので参考にされたい。誤りもあるかもしれないので、ご指摘賜れば幸いである。
上陸した通直はまず、細川方の完草入道父子を攻める。完草氏(⇒❡)は細川氏の庶流、斯波高経の家臣で新田義貞を討った細川出羽守と鹿草(完草)彦太郎は特に有名である(太平記 巻二十)。おそらくこの完草氏も細川頼之の命で河野氏の残党処理に当たっていたのであろう。通直の急襲で父子ともに大空城に籠城するも6月13日に討死した。通直軍はそのまま久万越(おそらく久万の台付近か?)から福角を経て北上し7月17日に久枝四郎左衛門尉の籠もる花見山城を落とした。その後、恵良城も奪って道後のおける河野氏の旧領はほとんど回復した。一方、通直の上陸に驚いた府中(今治市桜井付近か)の仁木義尹は9月に佐波(今治市砂場(さば)町付近か?)に集結し菊万(野間郡菊間町)を経て北条に侵入しようとしたがなんとか撃退した。時を同じくして仁木軍は野々口(おそらく水ヶ峠経由の山間部、米野々や藤野々の地名あり)を経て松前近くの八蔵(八倉)に出ようとしたがこれも浄土寺からの遊撃によって阻止された。おそらく搦手の南方から北条方面に進軍し、菊間方面軍と挟撃しようとしたのだろう。敗軍した仁木勢は府中も保つことができずに新居郡に向かって潰走した。それと入れ替わるように通直は伊予府中に入城し周囲の越智氏族もこれに従うに至ったのである。
図2.応安元年、河野通直(通堯改め)の伊予侵攻に現れる地名一覧。推定のものも含まれる。(原図はYahoo地図;拡大は画像をクリック!)
仁木軍は讃岐へ向けて撤退を開始、沿岸部には村上、能島水軍が出張っているためになかなか体勢を立て直せなかったが、翌年まではなんとか新居郡あたりで踏み留まっていたようだ。それは讃岐からの細川典厩(頼之は管領として上京中で、おそらく弟の頼元か頼有。「細川頼之 人物叢書164」(小川
信著 吉川弘文館 昭和47年)には「当時細川氏では頼基(元)が右馬助であり、頼有は次に述べる同年八月保国寺(西条市)に下した禁制によってなお宮内少輔であることがわかるが、やがて頼有は応安六年までに右馬頭になるので、「予章記」にいう細川典厩は頼有を指すものと思われる。」とある)の救援を期待しての踏ん張りであろう。頼有は生子山城に籠城する一條俊村を尻目に西進し福武の仁木軍と合流、通直軍は横岡(横山)に進駐し両者は応安2年(正平24年)9月、加茂川を挟んで対峙した(図3.参照)。「予章記」によると通直軍は北部の北条から福武に夜討を仕掛けたが破ることができず、高外下城(高峠城)に籠城あるいは周囲の高所に陣取り細川・仁木連合軍が加茂川を渡河したところで決戦を挑み大勝利を得たようだ。これにより細川軍は讃岐に退却し仁木義尹も幕府に報告のために上京し、東予は河野通直の領有に入れ替わった。
図3.応安2年、河野通直(通堯改め)の東予侵攻に現れる地名一覧。推定のものも含まれる。(原図はYahoo地図;拡大は画像をクリック!)
この輝かしい通直の勝利から、康暦の変で下野した細川頼之に急襲されて討ち死にするまでには10年の歳月がある。この間、一時、懐良親王の南朝勢力が中四国に拡大したためにそれを追い風に応安5年10月には讃岐国境を越えて西大野(三野郡)に戦いが及んだとの記載(祇園執行日記)もあるが(⇒❡)、果たしてそこまで通直の勢力下だったのだろうか?だいぶ後の事ではあるが明徳3年(1392年)、足利義満が相国寺で仏事をおこなった細川頼元の譜代格の隋兵の中に東予の姓氏である薦田新四郎頼尚や妻鳥但馬十郎清次の名前がある(相国寺供養記)。また、嘉慶元年(1387年)の頼有の安堵状の中に伊予国の風早郡や散在徳重(今治市、おそらく国府)があるなど、東予の国人や領土はある程度、細川氏に継続して掌握されており一気に通直の領有になったとは言い難く、わずか10年では頼春の侵攻以来30年近くの東予経営はそう簡単には切り崩せなかったのではないだろうか?その弱さが河野通直の致命傷となったのかもしれない。