【周阿法師を足利義満の師(太伝)と定むる。】
讃州細川記・・応安二年、京都ヨリ飛札到来而曰、太田郷周阿法師早々上京有ヘキ由也。岡屋形頓テ此旨仰遺ケレバ、周阿則使者ト同ク上洛ス。後是ヲ聞ニ、頼之公新将軍ノ学師を尋給ニ、天龍寺ノ長老春屋和尚之法眷王座主、又東寺之證快法印等、何モ広学ノ人ニテ召シケレドモ、行跡悪シテ帰サレケリ。之ニ依テ南都ノ教因法師ハ博学ナラザレドモ、行跡総テ道ニ叶ヒケレバ、是ヲ召テ師伝トシ給フ。今一人アラマホシク思召レ、今度周阿ヲ召テ仰ラレケルハ、貴坊ハ青雲目前ニ有ト云ドモ、糞土ニヒトシク思ザレケル我曾テ存ル所ナレドモ、何卒幼君ノ太伝ト成給、還俗有テ枯木ノ華ヲ開キ、頼之ガ心ヲ休メ給ヘトゾ宣フ。周阿御前ニ稽首シテ申上ケルハ、年月君ノ厚意ニ浴シ、尚又士ハ己ヲ知ル者ノ為ニ死ストカヤ承リ候ヘバ、君ガ為ニハ命ヲモ惜ニ足ズ。其上将軍ノ太伝トナル事、行路(くれ)テ夜光ノ玉ヲ得ルガ如シ。下賤愚昧ノ身ニシテ此上モナキ上意ヲ蒙ル事、申上ニ詞ナシ。併愚坊天性白癡ニシテ曾而陋巷ニ侍レバ、否徳尚将軍ヲ愧メ奉ベシ。然バ君ノ御眼ガ拙キニ似テ、天下狭キガ如シ。世又愚坊ガ拙キヲ以テ君ヲ拙シトセン事実ニ恐レ奉候。且六十ニ余ル者ヲ遁世スベキ時ナルヲ、今又還俗セン事懶ク候。仰願クバ今一度賢人ヲ御尋ナサレ、愚坊義ハ平ニ御免下サレカシト、傍に侍ル内藤左衞門ニ向テ、泪ヲ流シ申シケレバ、頼之公、重而貴坊之申条一々理リニ候ヘドモ、天下広シテ更ニ人ナシ。適々博学ノ者有ト雖、行跡相応ゼズ。我多年人ヲ見ニ、教因ト貴坊ト也。貴坊苦労ノ義ハ察シ入候得ドモ、又頼之ガ苦労ヲモ察シ給ヘ。尚将軍ネ忠勤ト存候ヘカシ。予モ管領職心ニ叶ヒ候ハネド、離ルモ却而不忠ナラント、斯ク苦労致シ候。貴坊若シ承引ナクンバ、予又幼君補佐ノ詮ナシ。サレバ衣ヲ払ヒ冠ヲ挂テ空山ニ伏サント、泪ヲ泛テ仰ケレバ、周阿辞ニ詞ナク、然者上意ニ従ヒ奉ルベシ。併還俗ノ事而平ニ御免下サレカシト申セバ、公大ニ喜ビ給ヒ、承引有ニ於テハ還俗ノ義ハ何ガ様トモシ給ヘトテ眉ヲ開キ給。サレバ周阿・教因日夜幼君ノ御前ニ侍リテ、聖賢ノ道ヲ教ヘ奉リケレバ、日々御成人ニ従テ聡明叡智ニ成セ給フ。故ニ此義満公御一人ハ天下セイヒツ(静謐)ニ治リケル矣。 (周阿法師召ルル事)
全讃史・・・・周阿法師は香東郡太田の人なり。俗名は近藤平治兵衛盛政、壮にして細川頼之に事へて寵を得たり。何くも無く嘉遁薙髪して、名を周阿弥と改め、又伴阿弥と曰ひき。性素朴にして逸民の操あり、読書を好み、弓馬の道に明なりき。頼之、之を将軍に薦めて以て新将軍の伝と為せり。嘗て月夜に乗じ頼之之を召したり。頼之句に云く、静かなる月を都の友もがな、周阿の句に云く、萩の錦を君が家土産(づと)。 (逸民伝;巻四)
図1.細川頼之、幼い足利義満に教育を施す。(「少年応仁の大乱と其前後」(野尻二太郎
著 大同館書店 昭和7年刊)より転載)
(国立国会図書館デジタルコレクションにて公開;⇒❡)
周阿法師は「細川岡城記」(「香川叢書 第二」所収⇒❡)によると元々は近藤平治兵衛盛政という“勇士”であったという。「天性素直にして無我の隠君子也。尤も聖賢の書に明らかに、和歌に達し、又弓馬の故実を明にして、円位法師に愧さる人也。」で特に連歌、連句を得意とした。香川郡太田村の人らしいがその屋敷跡は「此地今詳ならず」と「古今讃岐名勝図絵」には記されている。しかし、高松市は麻城の近藤氏に由来する三豊市や観音寺に次いで近藤姓が多く、当時から香川郡太田付近に土着した有力な氏族だったのかもしれない。
周阿法師が細川頼之に見いだされたのは白峰合戦(⇒❡)が終わり世情もやや落ち着いた貞治3年、頼之が岡屋形(高松市香南町)に滞在していた頃、南の山上にある無常院平等寺の楼閣に周阿法師を招いて月見の宴を兼ねて連歌の会を催したことによるという。すでにこの頃から周阿は連歌で世に知られた存在であったのであろう。「讃州細川記」には「角テ高楼ノ障子ヲ開レバ、月ハ腫然トシテ翠嶺ノ梢ニ氷鏡ヲ掛ケ、素影風ニ翻テ千里飛雲ノ如シ。南ハ連山波濤ニ等シク、北ハ平野綺ノ如ク、松山・屋嶋脚下ニ匍匐フ。・・」と月影に冴え渡る讃岐野の美しい風情が描写されている。現在も高松空港あたりから北を見れば五色台から屋島まで広く見渡すことができ、水田や疎林しかなかったあの頃の月夜はまた格別であったろうと想像するに難くない。「全讃史」の連歌はその時のものだが、「讃州細川記」では「萩の錦を・・」は岡隼人行康のもので、周阿のは「鹿驚立ツ秋ノ山田ヲ刈ソメテ」となっている・・と書くととんだ興ざめになってしまうだが・・
図2.高松空港南より北を望む。無常院平等寺もこのあたりにあったのであろう。城山から五色台、屋島まで一望できる。
(Google ストリートビュー より転載、一部トリミング)
ともあれ、頼之と親交があり、学識、武芸にも長け高潔の士である周阿は、管領となった頼之に乞われて足利義満の教導係(太伝)として応安二年(1369年)に京に上ることとなった。とはいえ、仏教や中国の史書に精通した五山の錚錚たる高僧たちが居並ぶ将軍の御座所に一介の片田舎の隠士が立ち回ること自体が現実問題として果たして可能であろうかという素朴な疑問が湧き上がってくる。周阿がすでに連歌の世界では知られた存在であったとしても、幼少の将軍に施すべきはやはり、新興芸術に属する連歌よりは伝統的な和歌伝授をお家芸とする公家たちの本領であろう。頼之がそれらの巨大な権威を退けてまでも周阿を必要としたのは義満の倫理教育ではなかったかと小生は思うのである。頼之の倫理方針は正平23年(応安元年)の「戒法三ヶ条」に示されている(「国史読本 中」冨山房 明治31年;⇒❡)。原文はなかなか難解なので、「少年応仁の大乱と其前後」(野尻二太郎著 大同館書店 昭和7年)の現代文の要約を挙げると
一、近臣達は踐(いや)しい心を起し、義満の気に入りにならうとして、善くない事を善いといって言上したり、又恩賞を得ようとして邪(よこしま)な事、ありもしない事を告げ口する様な非道をしてはならぬ。
二、私の遺恨を晴らす為に、言を巧にして、善人を悪人なりといひ、悪人を善人なりといって、幼主を邪な道の大穴に堕入れる様なことをしてはならぬ。
三、自分の事ばかり考えて遊事にふけり、奉公の行を怠ってはならぬ。又自分に才能がなく、功がないのに、立派な職や、高い位などを望んで、大国を領して威張るといふやうな事をしてはならぬ。
頼之の頭には、建武新政の立役者で幕府の長老にして他家との婚姻関係で隠然とした勢力を持ち、巧みな讒言で従兄弟の細川清氏はじめ多くの武将を葬ってきた佐々木道誉が如き人物が念頭にあったことであろう。九州で南朝が再び勢力を振るう状況にあって讒言で有能な武将を次々と南朝に追いやるような義詮の過ちを繰り返させぬようにしなければ幕府は危うくなる一方である。また、近くは直義派の妙吉や南朝の文観など政僧による弊害なども考えが及んだかもしれない。大人の家臣に言い聞かせるのは容易だが、幼い義満にこれらが容認してはならぬ悪事なのだと分からせるのは至難であり、家臣に言い含めるふりをして実は幼主に公平な裁きのための戒めを与えているのである。
そこで考え出されたのが“佞坊”を使う方法である。「日本歴史図会 第十輯」(古谷知新 編 国民図書 大正9-10年;⇒❡)には、
「髠者(坊主頭)六人をして、異なる衣を服せ袴を著せ、大小刀を横へ帯びさせ、以て俳優の者に似たり、名て佞坊また童坊といひ某阿弥と称す。讒諂佞媚妄言謔傲営中に徘徊し、屢々諸大名の為に毎(つね)に玩侮せられ、以て笑ひとなす。これ義満をして、佞者を疾(にく)ましめんと欲してなり。故に諸士の讒佞をなす者を謂て侍童坊といふ、因て人みなこれを恥づといへり。」
とあって、こうした役者を使って悪行の芝居を御座所で演じさせ、子供の義満にも善悪の様子がよくわかるように教育したのである。同書は続けて「後太平記」の記事として「一番に本阿弥陀仏、薄紅梅の羽織に四尺余の太刀を帯く。二番に随阿弥陀仏、野狐の皮羽織を著て朱鞘の大小を佩く。三番に波利阿弥陀仏、虎の皮の袖無羽織に熨斗付鞘の太刀を佩く。四番に高阿弥陀仏、緋純子の羽織に五尺余計の太刀を佩く。五番に照阿弥陀仏、大紋付たる白綾の羽織に青漆の太刀を佩く。六番に観阿弥陀仏、表紋の羽織に猩々緋の袖を付け狸皮の袴をぞ著たりける。」とそれぞれの阿弥号を挙げ、あたかも派手な歌舞伎役者の如き出で立ちで大立ち回りを演じさせたのであるから、義満始め居並ぶ家臣達が喜んで熱心に見入っている様が目に見えるようである。さらに京の内外でも彼等に大々的に悪行を実行させて人々が悪を憎むようにさせようと目論み、頼之は「疑を以て疑を脱くは禅侶の智なり、橛(杭のこと)を以て橛を抜くは工匠の才なり、然らば悪を以て悪を除かん計に如かず」という“毒を以て毒を制する”方法で人々を戒めようとしたようであるが、古谷は「国史畧」編者の岩垣松苗の言葉を引用してその効果に些か疑問を呈しているのは面白い。この方法は「譬(たと)ふるに麻面醜人をして痘を患ふ児女を保護せしめて、其の爪破を禁ずるが如きかな、一笑を発するに足らん。」というのである。つまり、「顔面に発疹ができて醜い人が、痘瘡を患った女児を保護してツメで顔面を引っ掻かないように注意しているようなものだ。」とその説得力のなさを論いお笑い種だと手厳しく批判している。しかし、小生などは顔せを重んじる女児などに対しては最も説得力のある効果的な方法だとも思うのだが・・話がやや的を外れた感もあるのでこの程度で止めておくが、周阿も元々は周阿弥で、佞坊もすべて阿弥号がつくところから同じ時宗に帰依した宗教集団の一員として阿弥衆を束ねる元締めの役目を果たしたのかもしれない。。彼等は“踊り念仏”の特性を利用して芸能や連歌を能くし鎌倉幕府以来、公に保護されてきた経緯もあり、そこに目をつけた頼之が僧侶や公家と拮抗する第三勢力の周阿に、義満に対する社会道徳の指南役の白羽の矢を立てたのは実に当を得ているようにも思えるのである。
その後、こうした技能集団は、“同朋衆”と呼ばれ将軍近くに仕えて芸術方面で卓越した人物を輩出するようになる(⇒❡)。能楽師の観阿弥、世阿弥や作庭師の善阿弥、茶道、立花の能阿弥(村田珠光の弟子とされる)、相阿弥、千阿弥(千利休の祖父)、刀剣の本阿弥家(光悦もその流れ)など、低い身分にもかかわらずその美的感覚で新しい道を切り開き、将軍や大名家の師匠となり現在の日本の伝統芸術の基礎を築き上げた貢献は計り知れないものがある。連歌で名を成し将軍の太伝ともなった周阿もまた創成期における斯道の国士に相違なく、まことに讃岐人の誇りであるとひとり感じ入るのである。
図3.6人の佞坊像。(「日本歴史図会
第十輯」(古谷知新 編 国民図書 大正9-10年刊)より転載、一部合成)
(国立国会図書館デジタルコレクションにて公開;⇒❡)