【南北朝統一なる】

 

南海治乱記・・明徳三年壬申冬、十月二日、南帝天祚を遁て三種の神器を帝都に還納せさせ玉ひ、吉野の皇居を去て洛陽嵯峨に隠逸し玉へば南方旧功の徒党も北方に降参す。或は出家して世を遁れ、或は山林に身を隠し朽果るもあり、爰に於て我国一統の世と成也。

        新田義宗同義治は出羽国羽黒山に引込居たりしが、竊(ひそか)に勢州へ来て国司に対すと云ども帝都に近ければ居住成がたくして伊予国へ渉り河野を頼玉へども国の中区には遠慮ありとて、土居得能が居地宇和郡の奥に入て安居をなさしめ玉ふ。宇和喜多二郡は山間幽谷にして一夫の守る所、千夫も踰(こゆ)べからず、是を匿家として新田の氏族もここにて尽させ玉ひける。予州の宮方、土居得能も漸々に衰て両家を合て一家とし得居と称号して近世まで相続せりとかや。  (南北帝御和平記;巻之一)

 

 

図1.南北朝時代の皇統図。「今上」は明治天皇である。(「中等帝国史」(笹川臨風編 大日本図書 明治35年)より転載)

 

          南北朝の起源は、後嵯峨天皇が亀山、後深草のいずれを後継者とするか明確な意志のないまま死去したことに始まる。その決断は鎌倉幕府に委ねられるが先帝が病弱な後深草天皇より亀山天皇に期待を寄せていたため、17才で亀山天皇に譲位させられ、おまけに時期皇太子として亀山天皇の世仁親王(後宇多天皇)に決定していたことなどから後深草天皇の失意は大きく出家をチラつかせながらも幕府と粘り強く折衝し、次の皇太子に自身の皇子である煕仁親王(伏見天皇)にすることを時の執権である北条時宗に認めさせることに成功し、以後は両統が交替で天皇を出すという折衷案で一応の収拾をみた。NHK大河ドラマ「北条時宗」で死の床に喘ぐ後嵯峨上皇と、「敵国降伏」と大書する亀山上皇(松田洋治 役)の姿は今も印象深く小生の記憶に残っている。

 

   

図2.死の床で呻吟する御簾の向こうの御嵯峨上皇と二皇子(左)と、元寇にあたり「敵国降伏」を大書する亀山上皇(右)。

                                                    (NHK大河ドラマ「北条時宗」より)

 

           その後、順番通りに即位した後醍醐天皇は元弘の変で強制的に退位させられ持明院党の光厳天皇が即位する。しかし、鎌倉幕府が滅び後醍醐が天皇に返り咲くと光厳天皇は退位を余儀なくさせられるも、九州まで追い詰められた足利尊氏が東上するにあたって大義名分として光厳の院宣と錦の御旗を手に入れた。建武3年(1336年)に、後醍醐天皇が吉野に遷幸するにあたって光厳も尊氏によって帝位を回復し、ここに56年に及ぶ南北朝の争乱は始まったのである。しかし、後醍醐方亡き後の南朝勢力はまだまだ侮り難く、後村上天皇になって吉野からさらに山奥の賀名生に追い詰められたとはいえ、北畠や楠木、和田はじめ果敢に都を窺う姿勢を見せて決して油断はできなかったのである。観応の擾乱では、足利直義が南朝に下って尊氏に反旗を翻し高師直、師泰兄弟を討伐し権力を掌握すると、尊氏の庶子で直義の養子となり西国で威を振るう直冬を快く思わない義詮や、公家や寺社ばかりを優遇する直義の為政を苦々しく思う佐々木道誉らが立ち上がると遂には尊氏も直義との決戦を決意した。直義方にも参謀役の桃井直常や石堂頼房、仁木義長ら一門に繋がる勇将もいたが、尊氏とは違って直義自身には用兵の才が余りなかったらしく中先代の乱以降、打出浜の戦い以外は百戦百敗の有様であった。直義が北陸に逃げるとそれを追うために南朝と和議を結んで北朝を廃止した。これが正平6年の「正平の一統」である(⇒)。まず尊氏が南朝に降参した形を取り、後村上天皇を正統な皇位と認めるとともに、北朝の崇光天皇(光厳の第一皇子)を廃位し光厳上皇の院政も停止された。あれほど恩義のある光厳上皇をいとも簡単に切り捨てる尊氏の思考回路は未だ小生には理解することができない。しかし、足利兄弟とその軍勢の大部分が揃って都に不在という絶好のチャンスを北畠親房らが見逃すわけはなく四ヶ月後には南軍が攻め上って都を占拠し光厳、光明、崇光の三上皇も賀名生に拉致されて、正平一統は南朝の手によって一方的な破談となってしまった。

           直後の直義の謎の死によって“観応の擾乱”は一応、収束するが都には皇位継承者が誰もおらず、三種に神器もなく、尊氏の征夷大将軍も解任されてしまい北朝の体裁を示すものは何も残っていない事態となった。そこで仕方なく崇光の弟で僧籍に入る予定だった弥仁王が践祚して後光厳天皇となった。神器も上皇(治天の君)の詔宣もない践祚は異例づくめではあったが元関白の二条良基や勧修寺経顕らが奔走して何とか公家や武家の支持を獲得するのに成功した。神器のない皇位継承を無効とする一派もあったが、二条良基の「尊氏が剣となり、良基が璽となる。何ぞ不可ならん」(⇒)と天照大神を神鏡に擬する先例を挙げて継承を認めさせたという。人こそ神器であり、物はなくても支障はない(実際に後光厳天皇践祚の時も神鏡(八咫鏡)は石清水八幡宮に残された箱だけだった)という解釈は歴史的にも画期的な見解となった。

 

  

図3.光厳天皇(左;園田智章 役)と、勧修寺経顕(右中央;草薙幸二郎 役)+足利尊氏、直義兄弟。(仲悪そう・・)

                                               (NHK大河ドラマ「太平記」より)

 

           その後、義詮の頃には仁木義長や細川清氏など北朝で疎まれれば南朝に走るという武将も多く泥沼状態に陥った時期もあるが、義満を支える管領の細川頼之らの計略が次第に効を奏し、畿内では難敵の楠木正儀を北朝に靡かせるのに成功するとともに、九州探題の今川了俊による菊池氏への粘り強い攻略によって南朝の九州勢力も次第に弱体化していった。苦境に立つ南朝では後村上天皇崩御の後に主戦派の長慶天皇が即位したが、和平派の勢いが増し義満の巧みな勧誘もあって、弟の後亀山天皇に譲位を余儀なくされ、南北朝統一にむけて時勢は一気に動き出した。その条件として

1.    三種の神器を、後亀山天皇から後小松天皇に譲渡する。

2.      皇位の継承は、鎌倉幕府が定めたとおりに大覚寺党、持明院党の両統迭立(交互の皇位継承権)とする。

3.      南朝の窮状を鑑み、諸国の国衙領を南朝支配とする。

          が出され、南朝にとっても“渡りに船”でもはや拒否する理由もなく、明徳3年(元中9年;1392年)10月に遂に後亀山天皇が都に還御して南北朝合体をみることになった。ここに北朝一統にして義満一強の支配体制が確立したのである。ちなみに、明治時代以降の皇統図は図1.の如く南朝正統で記載されているが、それ以前はたとえば「雲上明覧大全」(弘化2年;1845年刊)のように北朝正統の皇統図が用いられおり、楠木正成などは極悪人の烙印が押されていた(図4.;⇒)。これ以上詳しくは述べないが、現在の皇統図が確立したのは明治44年、喜田貞吉による「南北朝正閏論争事件」(⇒)以降で、大逆事件における幸徳秋水の陳述のように、南北朝いずれが正当か、という定義は今なお国体の根幹に関わる“闇”の大問題として暗い影を落としているのである。

 

図4.江戸時代の皇統系図。北朝が正統となっている(「雲上明覧大全」;「人文学オープンデータ共同利用センター」のHPより転載)

 

           さて、皇位を譲渡した後亀山天皇には南朝正統の皇位を与えられる筈であったが、太上天皇の尊号が与えられただけであった。また、神器に対しても大覚寺での受け渡しを済ませただけで譲渡の儀式もおこなわれずにその後は冷淡そのもので、あとの二つの約束も全く果たされずに他の公家衆も大部分は職位に有りつくこともできずに没落していった。こうした状況に辟易した後亀山天皇は、義満死後の応永17年(1410年)11月に都を脱出して吉野に移り抵抗を続けることになる。南北朝統一から既に16年が経過していた。これ以降の南朝を「後南朝」と呼び、禁闕の変(1443年;⇒)や長禄の変(1457年;⇒)、応仁の乱で山名宗全に担ぎ出された小倉宮(⇒)を始め、近くは幕末の十津川郷士や戦後の熊澤天皇に至るまで、もうひとつの日本の歴史を連綿と刻んでいくことになる。また、北朝も後光厳天皇と崇光天皇の間で不和がおこり、後光厳天皇系が後円融、後小松、称光と続くが称光天皇は奇行が多く断絶し、結局、失意のうちに崩御した崇光天皇系の後花園天皇が継嗣して現在の皇統に続いている(⇒)。その意味では今も南北朝は静かに続いていると言えるのかもしれない。

 

           上記の「南海治乱記」にもあるように、四国では南北朝統一後も新田一族や土居・得能氏は頑強に抵抗し、阿波や伊予の山岳党として独特の風習や勤皇の意識を近世まで受け継いでいくのである。愛媛には、他に長慶天皇の潜幸伝説がある。闘志溢れる姿勢で後村上天皇の後を継ぐも合体派の台頭で已むなく退位させられ、北朝側の追跡を逃れて各地を放浪したという。現在も全国に多くの長慶天皇伝説が残っているが、特に今治の楢原(奈良原)山は有名である。天皇は牛に乗って行かれたといい、光林寺(今治市玉川町畑寺)には、牛に跨がる天皇の木像が大切に祀られている(⇒;図5.右)。こうした故事から楢原山は戦前は牛馬の神様として参詣者も多く、殊に“千疋の桜”は西の吉野と比されるほどの桜の名所で“名勝”にも指定されていたが、次第に枯死し今は昔日の面影はない。峠にある吉井勇の歌「大君の桜吹きけりかしこみて千疋峠の花ををろがむ」の石碑に当時を偲ぶだけである。楢原山山頂には嘗て立派な三間社流れ造りの「奈良原神社」社殿と経塚があり、経塚は昭和9年に偶然発見されて発掘がおこなわれ、その出土品は国宝として近くの「玉川近代美術館」の保管されている。神社本殿も見事な造りで文化財級であったが、地区の人口減少の煽りを受けて倒壊してしまい現在は新しい社殿が再建されている。「奥の伊予路」(愛媛新聞社 昭和46年;図5.左)に在りし日のその美しい社殿の姿が、「四国百山」(高知新聞社 昭和62年)に倒壊寸前のその痛ましい姿を見ることができる。天皇はここから水ヶ峠を越えて道後方面に進まれたといい、東温市牛渕の浮嶋神社には御陵伝説地がある。ここから、さらに南に石墨山を越えた直瀬地区にも多くの伝説が伝えられ(⇒)、安徳天皇の平家伝説同様、四国特有の哀愁を感じさせるに十分で、真偽の程は別として、あの高い山々を牛に乗って越えていかれたのか・・と、これこそ“四国まんなか千年物語”とも言える遙か限りない旅情に、思わず目が潤むのである。

 

   

図5.嘗ての奈良原神社社殿(左;「奥の伊予路」より転載)と、光林寺の長慶天皇像(右;「玉川ネット」HPより転載)。

 

 

   Home