南海治乱記・・・天正六年の夏、三好山城守入道笑岩より信長に訴へけるやうは、土州長曽我部、己が威を恣にして公儀を恐れず、阿波の国に攻入り南方に郡を押領し、笑岩が本領美馬三好二郡を掠む。己れも信長公の幕下なれば笑岩が本領を犯すべき事に非ず、畢竟上を蔑にする狼藉人也。制止を加けられずんば後日天下の禍害をなすべし、早く御裁断を仰ぎ奉る由を言上す。信長公聞き玉ひて、謂ある申状也。即ち制止を加らるべしとて其書をなして土州に下し玉ふ。其文体厳重にして私の兵革を起す事を制止す。阿州南方には長曽我部氏と遺恨の事ゆへに是を赦宥す。其外、阿波讃岐伊予は信長公の幕下の国なれば必ず私の弓矢を取りかくべからず、若し違犯せしめば土州に征伐を加へらるべき也との下知なり。元親、これを聞て承引の意なくして曰、昔、我、人の先立て信長に候す。危弱の身なりと云へども四国を平治して信長の御敵の根を絶し忠節を致さん事を乞ふ。是に因て御感あって嗣子彌三郎に信の一字を賜る。今又何の故に先約を変じ玉ふべき、これ唯佞人の言し妨るなるべし。元親曾て忠を忘れず、此の四国を平治して信長公の御先を仕らん事を欲す。此の旨を以て宜く申し洩され玉ふべき也との返翰とぞ聞へける。  (信長公、土州元親に制止を加へ被るるの記;巻之十)

 

 

元親記(中)・・信長卿、御上洛以前より通せられしなり。御奏者は明智殿なり。又明智殿の御内斎藤内蔵助は元親卿の為には小舅なり。明智殿御取合を以て、元親卿の嫡子彌三郎、実名の御契約を致す。この時元親よりの使者に賀見因幡守と云ふ者罷上る。進物は長光の御太刀、御馬代金子十枚・大鷹二連なり。即ち信と云ふ御字を給はる。之に依り信親と云ひしなり。その御祝儀として、信長卿より左文字の御太刀、羼(鞘)は梨子地、金具分は後藤仕るなり。御馬一疋栗毛拝領あり。その由緒を以て四国の儀は元親手柄次第に切取り候へと御朱印頂戴したり。然る処に、その後元親儀を信長卿へ或人ささへ申すと有るを、聞及び申す処に、元親事西国に並びなき弓取と申す。今の分に切伐に於ては、連々天下のあだにも罷りなるべし。阿州・讃州さへ手に入申し候はば、淡州などへ手遣仕る可き事の程は、御座有間敷と申し上ぐと云ふ。信長卿実もとや思しけん、その後朱印の面御違却ありて、予州・讃州上表し、阿波南郡半国、本国に相添へ遣はさるべしと仰せられたり。元親、四国の御儀は某が手柄を以て切取り申す事に候。更に信長卿の御恩たるべき儀にあらず。存じの外なる仰せ、驚入り申すとて、一円御謂申されず。又重ねて明智殿より斎藤内蔵助の兄石谷兵部少輔を御使者に下されたり。是にも御返事申し切らるるなり。 (信長卿と元親申通ぜらるる事、御朱印の面御違却之事)

 

 

         南海治乱記では、元親が信長と和親し、嫡子の彌三郎に信親と名乗らせたのは元亀2年としているが、天正3年とするのが正しいらしい(。その時、信長は元親に「四国は切り取り次第」という朱印を与えたという。ところが天正9年になって、突然「土佐と阿波南二郡の領有しか認めない。」と、前の約束を反古にして高圧的な対決姿勢に出たのである。その陰には三好笑岩(「元親記」では或人)が「自分の領有する美馬郡を奪い取られた。」と訴え出たのが理由とされているが(治乱記では天正6年だが、おそらく9年の誤り)、笑岩嫡子の徳太郎が、強要されたとは言え自ら土佐方に下って三好の忠臣達を謀殺したのだから、笑岩の言い分のみを正当化することもできない。それよりも、天正8年に元親が謀叛の疑いをかけて一條内政を追放したことや(⇒)、秘密裏に徳川家康と何やら親交を結んでいるのを信長が察知して、警戒を始めたのが真の原因ではないか、と考えられている。信長と元親の交渉役は明智光秀とその家臣である石谷頼辰と実弟の斎藤利三、および長宗我部方の石谷光政(頼辰の養父)が勤めた。光政の娘は元親の正室、頼辰の娘は信親の正室という二重の血縁で結ばれていたからである。最近の研究によれば、信長の違約に抵抗した元親も、天正10年になってからは信長の意向に従う旨を記した証拠が見つかっている(。土佐勢が一宮城や牛岐城から一時撤退したのも、その交渉に添った平和的なものだったろうし、笑岩に、人質だった孫の俊長が返されたのも信長に敵意のない事を示す証しだったのかもしれない。それでも、信長は四国侵攻の兵を泉州の港に終結させたのだから、元親が同時期に、病に伏せったというのもわかるような気がするし、光秀が謀反を起こす大きな一因ともなったとする説にも充分に頷けるのである。 

 

 

 

 

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