南海治乱記・・・天正七年春、大西上野介、斎藤下総守方より土州国分寺の坊を使僧として香川信景の舎弟観音寺景全の家老、香川備前守方へ遣はし潜に言れけるやうは、元親の弓箭次第に手広く成り、阿波国も当年中には治り申べく候、伊予も西分は大形幡多より発向し土佐方に附き、北伊予も大西上野介に附て降せしめぬ。香川殿御分別、此時の大事に候。土佐方へ身方なされば御家の長久たるべく候。三好方をなされ候はば滅亡に及ぶべく候と入魂に言送りしかば、備前守同意して扱に及び即観音寺殿へ申し勧めて信景に申す。信景の曰、上野介の申さること至極に覚へ候、我も日来元親と和親の志ある故に我旗下、斎藤下総守土州へ降すれども拒がず候、其後、三好方より藤目の城を取返す時も加兵を出さず。元親さへ同意あらば和平をなし、我れに男子なし女子あり、元親の末子一人を申乞ひ我一跡を継せ申べき望あり。大西上野介、斎藤下総守宜く其意を以て披露せらるべしとの返答也。西の坊よき使を勤て双方の和親をなし事済む。香川方の質として香川山城守、河田七郎兵衛、同く彌太郎、三野菊右衛門、四人の家老二人づつ番代に土州に詰る。

          天正七年の春、信景も岡豊の府へ出仕あり。此時の奏者は中島與市兵衛と云者也。香川信景より進物には真の太刀に刀を組添たり。太刀は長光、刀は二字国俊也。綿五百把、紬百端(白茜)、紅五百斤、馬一疋(青)、其外の子息方簾中方まで進物あり。家老中皆礼を請る。三ヶ国の諸将土州へ拝礼の衆多しと云へども、香川は多度三野豊田に那珂郡の内に加て四郡の主なれば其所柄も豊饒にして、衰乱の世と云へども自余の兵将に越たり。元親も別て馳走あり。饗も式正の膳部也。能乱舞もあり、五日逗留あって帰国の時、国分に茶屋を立て送り酒迎ひあり。其年の暮に元親の次男、五郎次郎を讃州へ呼越し婚儀を調へ本城を渡さる。此の雨霧城と云は険阻の高山にして大手路は馬も上れば大身の山城也。上の分内も広くして大兵をも納べし、水は沢山にして旱魃にも乏からず、険阻の名城也。・・(阿州大西本道より讃州へ越る山路は参照。)・・  (香川信景、土佐元親に降するの記;巻之十)

 

 

玉藻集・・・・・天正八年八月、長曽我部信親、六千の勢を率ゐて讃州に乱入し、西方観音寺に陣して、香川山城守信景へ使者を立にけり。其赴は、今度長曽我部信親予州を大半討従へ、当国に出陣候。香川家之㕝前代より承及候。今長曽我部と一戦に及ぶべく候哉、同くは御一味あらば、尤相互の繁栄たるべく候旨趣、御返事承るべく候。ヶ様申通る㕝、相互一言の表裏有まじく候と云越ければ、香川家臣三野、多田、大麻、和田、小田、秋山等を集て申けるは、今度長曽我部と取合を始め候と云共、加勢有べき味方なし。亦我小身にて、一身の覚悟を以て身を立たるより、代々の如く、誰にても四国を管領すべき者に属して、家をたてたるこそ本意なれ。和をなすにはしかじと思ふにいかにと申されければ、各尤然るべしとて其意に同じければ、さらばとて、使に返㕝申渡しける。香川㕝元来小身と云、其誉に当らざる者成故に、誰人にてもあれ四国管領する人に属して、武道を立候㕝其隠れなく、先年の細川、近年の三好、何にも管領の家に対し不儀不忠の㕝なし。長曽我部殿四国の権を取給はば、香川に於ては御手に属し申べく候。明日早速御陣に参、御対顔申すべしと申遣しける。信親大に悦、出陣の首途に大名味なく旗本になしたりとて悦あへりける。人と交りを深くするには、早くちなむにしかじとて、明日早々懸付対顔有て、当国中諸城攻様、和睦の入様相談して帰りけり。  (香川山城守信景;坤巻)

 

 

長元物語・・・・一、讃岐の国は、香川殿領分過半。大分の様に申す。香川殿姫一人ありて男子なし。則ち元親公の御次男を養子聟に取り給ひ、則ち代次(世継)に備へ、香川五郎次郎殿と申すなり。

        一、同国の侍、観音寺・石田・砥川・羽床・北条・香西連々、土佐へ降参す。

 

 

          長宗我部元親と香川信景の和睦は、その後の讃岐侵攻に計り知れない影響を与えたが双方の駆け引きはすんなりと進んだのであろうか?治乱記の伝えるところは、大西上野介が土佐国分寺西の坊の僧侶を信景の弟である観音寺景全の元に使わして平和裏に和睦の条件を整えたという。しかし、「土佐方へ身方なされば御家の長久たるべく候。三好方をなされ候はば滅亡に及ぶべく候」とあるから、半分は脅しの文面で、到底、対等の立場での和睦とは言い難い。特に豊田郡、三野郡内の城は、(粟井)藤目城といい、九十九山城といい、麻城といい、仁尾城といい、兎上山城(爺神山)といい、すべて落城伝説を持っているのは注目すべきである。兎上山城などは雨霧山から眼下に見晴るかす事ができるほどの至近距離だが、ここにも詫間弾正景正の壮絶な討死伝説が伝えられている。つまり長宗我部軍はすでに三野郡の奥深くまで侵攻した時点で和睦の使者を立ててきたのである。降伏すべきか、はたまた抗戦すべきか?その時の香川家主従の思考過程を「玉藻集」は如実に伝えていて実に興味深い。香川家は時の政権によらず常に従臣の立場を貫いてきたのだから元親の従臣であっても何の問題もないし、時の政権に対して不義不忠をした事もないと豪語するが、永禄年中に三好家から離反して毛利家に靡き実休の征討を受けたのは何処の何方ですかと言いたい。所詮は降伏のための屁理屈に過ぎず、これでは絶望的な状況で戦って死んだ家臣達も浮かばれないだろうと悲しい気持ちになる。反面、家名存続のためには降伏もやむを得ないという苦しい立場も理解され、おそらく、五郎次郎(親和)を養子にする話も信景が切り出したのではなく、元親方からの降伏条件の一つではなかったかと思い巡らすのである。この年は、元親の怒濤の讃岐侵攻が開始された年で(おそらく伊予境と山脇越の二方面から)、一気に西讃各城の奮闘や落城が続いたため、史籍によって伝えられる時系列に多少のズレがあるのは否めないが、元親との和睦を、豊田、三野郡侵攻の前とするか後とするかでは香川氏の正当性も大分異なってくるのではないかと思うのだが・・。小生は香川氏の名誉のためにも、兎上山城落城の後と信じたい。 

 

 

 

 

 

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