南海治乱記・・・天正八年に讃州宇都宮の家臣、菅田直之と云者、河野屋形出雲守通昌に取懸け合戦に及ぶことあり。此直之は謀ある者にて、宇都宮は微力にして頼むに足らずと思ふて土佐の元親へ便りを求て旗下になり、先年より人質を出し元親を後盾にして大名の河野と軍諍す。先づ大津に近き八幡城、鍛冶が城を調略を以て討果し両城を取て次第に河野領へ方術をなす。土佐元親、東伊予新居宇摩郡六人の兵将を帰服せしめ、中伊予河野屋形は数代の大名にて優長に生長ければ弓箭の術を取失ひ、諸作法乱れて正義なし。元親より取かくるに於ては幾程も無くとり治めらるべけれども、今の通昌は来島氏の子を養子として河野家を継ぎ、来島は毛利家の縁者たるの由聞く。今の河野も毛利家の婿たるの由を聞なれば、卒爾に河野に取かかり大名と取り合をなさば大に国の煩ひをなすべしと遠慮を廻らし、先づ少身の者どもを身方に引付へ後変を待つべしとて、河野氏に取懸けずして先づ大洲の菅田を帰服せしめて力を添へ、渠に取合を発さしむ。然して土佐より大津城へ加番として、波川玄蕃頭と云ふ元親の姉婿なるを兵将として兵衆千二百人を遣はし相助く。河野通昌八千人を率して大洲領分へ発向す。菅田が兵衆、土佐の兵衆取出て戦ふ処に、河野方の兵衆猛勢を以て大洲城へ追込む。其時、城の大門口にて執行加賀守、津野藤蔵踏留り奮撃す。二人の鎗、一二の諍ひあり。元親曰く、加賀守も一備、藤蔵も一備也。各一度に大門口に取込むときなれば各我が備にての一番槍也、諍ふに及ばずとて元親の前にて和睦の盃を取替し、元親に向ふて礼をなすと也。是より河野宇都宮両家の取合となりて年々相諍ふこと止まず。北伊予十郡は宇摩、新居、周布、桑村、越智、野間、風早、和気、温泉、久米、是れ河野領分也。伊予浮穴郡宇都宮領分、喜多、宇和二郡は西園寺領分也。河野は世々武勇の家なること其隠れなし。今や通昌に至って戦の道を嫌ふ故に隣敵これを侮りて端々より削られ家を危ふす。乱世の慣ひにて人の国を奪はんとする者は亡ぶ。又奪はざる者も亡ぶ。其の成敗存亡の際(あひだ)、聡明叡智に非ずんば是を察すべからず、惜むべし。河野家は孝霊天皇より以来、伊予国に立て家門繁昌し断絶なく今日に相続せり。邦君愚昧にし傾敗に及ぶこと実に惜むべきこと也。 (予州河野兵革の記;巻之十一)
長元物語・・・・一.東伊予、新居・宇摩の郡は、大分、石川と云ふ侍の知行。この石川土佐へ降参す。これによりこの両郡の小侍、何れも人質を出し、元親公御手に入るなり。
一.中伊予、河野屋形数代。大身に御座故、国中に手をさす侍もなく、数年豊饒なれば、その比、屋形の家中、弓矢の唱薄く罷りなる。この由、久武内蔵佐以下の長臣諫め申上げる。追付御取掛りあれかしと申す時、元親公の仰には、河野は中国の毛利の聟なり。又、来島は是も毛利の縁者と聞く。卒爾に取懸れば、中国より加勢せば大事なり、との御分別なり。よつて河野殿分領へは少しも手を指し申さざる様にと、御家中へ仰せ聞かせらるるなり。扨予州の国人御攻めよせの後、右両家もいつとなく、土佐へ人質を出し御存分になるなり。
一.西伊予、宇和郡・喜多郡の国侍の知行、何れも山分なれば、城も懸り口、手明の山を拵へ、里々も切所のみなり。扨、知行持の人々には、西園寺・宇都宮・御庄・川原淵・北ノ川、この五人は往古より大身、その外、大野・曾根・床崎・魚成・萩ノ森・多田・山田・熊崎・法華津・板島・津島・中野・深田・土居・河原淵一覚一類、大津菅田直之、以上二十一人なり。
一.右の衆の城数、大津・白木・多田・同里城・南方・山田・熊崎・法華津・板嶋・岩井ノ森・同里城・緑城・猿越・新城・岡本・土居・金山・深田・高森・西ノ川・大森・薄木・竹森・河籠森・黒瀬・甲ノ森・三滝・黄幡・猿ヶ滝・宗川以上三十なり。この城の在所々、土佐より打続き働く故、大方降参するもあり。又責落ち平定に乗るもあり。明けて退くもあり。その事奥に記すなり。
一.伊予宇和郡より、土佐の内、奥屋内の城、目黒の城へも取懸る。土佐の浦々へは中伊予来島のけいごの兵船来り、女童を取り、浦浜の家を焼亡せしむる事。
一.同国の内、宇和・喜多両郡は、土佐境の山分なり。此所の侍は、下々迄も鹿・鳥を打つ事所作にて、鉄砲上手なり。土佐より働く時、物頭大将衆、毎度鉄砲にて討れけり。この故に敵勝に乗る。四国大形御手に入りても、此所は降参せず。手明の山城なれば、手柄責にもならざる所なり。
一.この両郡、か様に六かしき所なる故、この在々村々下人、草臥(くたびれ)申す様にと、毎年極月(しはす)廿七日、土佐の幡多郡より陣立して、下々には麦作をなぎ捨てさせ帰陣。又在々放火。三月半麦なぎ陣。卯月初めには苗代返し帰陣。扨て又植田をくつがへす。秋になればかり田に陣し、侍分は城をからみ、矢軍して、下々足には稲をからせ、廿日計も滞留かくの如し。年々働く故、敵の民皆迷惑いたし、連々城持衆降参す。次第不同これある事。
一.宇和郡の内、河原淵殿領分、河龍ノ森へ節々に働き、河原淵殿・同一覚一類土佐へ降参あるに付て、この領分の城数五ケ所、河龍ノ森・大森・西ノ川・竹ノ森・薄木なり。右の通り人質を出し、元親公御存分になる。
一.宇都宮殿家老、大津の城の城主菅田直之、土佐へ早々人質を出し、元親公を後陣に頼、近所の八幡城・カジヤの城、調略をもって討果す。直之知行して、その辺自分の働手柄なる儀あるの付て、元親公別て御念比(ねんごろ)になされしなり。
一.右の大津の城主城之助直之へ、河野殿人数八千にて取懸り申さるるにより、大津の城へ加番として、波川玄蕃と云ふ者(元親公妹むこなり)物頭にて、人数千二百遣さる。依て河野殿昼夜の境もなく責める。土佐より加勢の衆も一所に追出し、追込み、戦ふ時、大門口にて執行加賀守・津野藤蔵と二人ふみとめ、こねつきの鑓を突く。この両人一番、二番の争、口論相済まず。その後元親公御前にて対決になる。先づ加賀守申す様は、一番に鑓合せたるは某、紛るべきにあらずと云ふ。扨て藤蔵申すは、加賀守の一番さもあるべし。某後に目はもたず、拙者より先に一人も味方居らずと云ふ。その時元親公仰には、藤蔵一備、加賀一備、この時一所に大門に取込む時の事なれば、両人何れも一番鑓、争に及ばずと、即ち御前にて御中直しの盃下されけるとぞ承る。右の軍、河野殿一先づ引取りぬ。後いつとなく土佐へ降参しけるとなり。
一.喜多郡魚成と云ふ侍、土佐へ人質を出し降参仕る事。
一.同郡曾根と云ふ侍、知行境の床崎と中悪しきに付て、曾根土佐へ人質を出し、土佐衆陣立ありて床崎をほろぼし、この知行曾根に給はる。曾根別てありがたく存じ、忠節諸人に越へし事。
菅田直之というのは、大野直之のことで菅田城主のためにこのように書かれたのだろう。宇都宮氏は元々、下野国の有力大名で、宇都宮豊房が鎌倉時代末期に伊予守護職に任命されて下向し大洲に築城して勢力を張った。古来より伊予を支配する河野氏の譜代ではないので素直に従属する義理はなく、寧ろ、土佐一條氏や大友氏に近づいて均衡を保っていた。宇都宮氏が最大の危機に陥ったのは永禄10年の毛利氏の伊予侵攻で、一條氏が宇都宮豊綱と組んで西園寺公広を攻めたのを、河野通宣が小早川隆景や村上通康の援軍を得て、「鳥坂峠の戦い」(⇒❡)などで一條軍を打ち破り、豊綱も捕虜となって宇都宮氏は実質上、滅亡してしまった。大野氏は古くからの伊予国人衆で、領地が「大野が原」近辺で土佐国境と近いため天正に入り元親が何度も攻め込んできたが、激戦の末に撃退している(笹ヶ峠合戦⇒❡)。直之の兄の直昌はこうした立場上、一貫して河野氏に忠節を尽くしたが、弟の直之は宇都宮氏の家老として河野氏や西園寺氏ともしばしば対立し、豊綱滅亡後は長宗我部元親と誼を通じた。天正8年になって河野通直が大洲城に楯籠もる直之を攻めたが、土佐の援軍を城内に引き入れて防戦し、河野氏を辛うじて追い返している。しかし、東予の諸将も元親にもぎ取られて弱体化の進む河野氏に再度の攻略をする力はすでになく、その後、南予は西園寺派と長宗我部派の死闘に明け暮れるのである。南予の複雑な地形にさすがの元親も攻めあぐね、久武親信はじめ多くの重臣を失うこととなった。「長元物語」は、そのあたりの伊予諸将の動静を詳しく記載してあるので参考になると思う。