三好記・・・・・去る程に、細川讃岐守(持隆)殿の御子息掃部頭(真之)殿は、種替りの御舎弟三好長治公に御恨あるにより、勝瑞をば、忍びやかに出でさせ給ひ、福浦出羽守を頼み、仁宇山の奥に暫く御座しけれども、兼て御味方申せし伊澤越前守も、去る天正五年五月下旬に、坂西の城にて討死し、吉井左衛門大輔・多田筑前守、其外旧功の侍共、爰彼にて討たる。一ノ宮長門守も近年焼山寺の奥に身をそばめ、有り甲斐もなき時節なれば、誰人を、心の奥の一日の味方と成して有るべき便もなければ、兎やせん角やあらましと、思ひ煩はせ給ひ、年月を歴給ふ処に、又兵乱出来て、人の心も覚束無き折節、山林の逆徒江村治部大夫・本木新左衛門尉・江村兵衛之進・露口兵庫なんどと云ふ者共を大将にて、数百人を語らひ、掃部頭殿を取籠め申しければ、力無く天正十年十月八日に仁宇谷の奥茨ヵ岡と云ふ所にて自害し果て給ひけり。人の運命尽きぬれば、浅猿しき匹夫の鋒に名を失はせ給ふ事、口惜しかりし事共なり。  (細川掃部頭殿自害之事;下巻)

 

 

細川家記・・・・真之公長治を別宮にてほろぼして後は、三好存保も容易く寄せ来らず、是により大井の幕下も心安く思ひ、仁木佐衛門・秋元紀伊・福良出羽等しげしげ出仕もせず、己々の城にやすらひける。服部因幡守は五畿内の辺の様子をも窺ん為、海を渡りて上方へ行く。外の聞えに、幕下補佐の諸将多しと唱ふれ共、慥(たしか)なる諸将居合さず、寂莫として只近隣親しき人を頼みにして、さして用心の躰にもあらず、主従自然に軍務を怠り、敵寄せん共、切なる心もなかりけり。三好いかで父兄の怨を忘れん。利巧に物馴れたる者を択び、或は商人に出立せ、或は猟師山がつの躰にして、爰に三人、彼に五人づつ、破れたる衣服を着せ、脚絆・股引・破菅笠、切れちぎれたる蓑を着て、方々へ徘徊し、佐野河内の谷々、村々へ入籠、所の者と親しみ、勇壮なるもの共に、酒手たばこ銭とて、夫々に、銀子となく、銭となく与へては、民意を取り、後には計略の趣を申し含む。鄙賤猟師樵夫の事なれば、当分得付候を悦びて、大井の庄へ押寄する日限を調し合せ、殆ど多勢を募りける。

           さるほどに、合図の日にもなりしかば、ここかしこより、烏の集まる如く、蟻の如くに集まる故、大井の館を十重二十重に取巻き、一度に喊を上げたりける。大井屋形には仁木伊賀のみ首将として、其外は小者・費傭の類三十人に過ぎざれば、思ひ設けぬ事故に、上を下へと返せ共、うろたゆるのみにしてあきれ果て泣叫ぶ。さあれども、諸将の城へは道隔だたり、告げ知らする人もなく、四方の囲は水も漏さぬ斗なれば、真之公は、運の極なる事を決定して、迚も遁れぬ事なれば、打て出て犬死せんよりはと、伊賀守を召され、涙と共に仰せけるは、かねて、きやうの不意の事もあらばと思ひ、一子六郎(之照)が事を平島の義冬公へ頼み置き、殊に父持隆存生の時、義冬公を此国へ迎え奉らせし志をも思召さん、儞(なんじ)何とぞ囲を出て、具して参り、我最後の申遣せし言どもを申上げて得させよ。哀れ不便の六郎や、東西もわきまへぬ内、左衛門が方に成長られ、義冬公のあわれみにて、彼の館に養はれ、此夏初て父の所に皈り来て、父よ子よとなじみしに、程なく此の難出来し、長きうき目を見する事、能々運の末に生れたる、果報少なき者なりと、声に涙にむせばるる。儞も一人の孫なれば、不便の思ひは同じ事、され共叶はぬ事なれば、いでいでい譲り渡さん物ことあれと、蔵の宝櫃をめされ、いそがはしく蓋をはねあげ、先づ一軸を六郎に戴せ、此は我家の系図の巻、長成に及ぶ時、我とならずば人頼み、今の有様をも書き置き候べし。数多の文を取出し、伊賀に渡しての玉ふ様、是皆、先祖、将軍よりの感状等、後に読みて知るべし。次に正宗・貞宗・行平等の重宝の剣、引くるめて伊賀に渡し、後に飢に及ぶ共、母方や異姓に伝ふるな。同姓の人ならば未聞不見の人なり共、其方へ渡すべし。吁嗟、太祖義季より我まで十九代、遠からぬ内に拙き運の我に至り、此家を亡ぼす事、我が家内の大罪人と、倒れ伏して泣玉ふ。漸々助け起し奉りければ、小鏡を六郎に授け、先祖の顔色は此中に籠てあるなり。これを失ふ事なかれ。最後に彩幣(采配)振上げて、是我家第一の目あてとする所、長成して気力を養ひ、是を用ひて軍兵を指引し、祖父や父の讎を報ぜよ。頻に門を破られんとするを聞き玉ひ、伊賀急々に出よ。遅々して父子共にとりこにせられなば、不忠これより過ぎたるはなし。伊賀、一々仰を承れど、胸に流るる涙、雨の如く、声を呑んで物いふ事あたはず。然れ共、此大事の場を憤り起て罷り出むとしか共、長き御別れと思ふより、目もくらみ、足ふるひ、おふおふと泣き叫び、時を移して去りかぬる。

           真之公大いに怒られ、儞女子児の如く、忠と義とを忘れたか。早門を破るぞかし。いけどられて縄目にあはば家門千載の恥辱、とうとうと追ひ出し玉ふ。伊賀、六郎が手を拏(と)り、究竟の若者四五人引き連れ、数々の宝物、この櫃にてはかなふまじと、孤もうちしき引包み、裏の門脇、犬くぐり穴よりはらばひ出、流星の如く風よりも早く、危き所を遁れ出て、平島さして飛びにける。真之公は、六郎は出しぬ、家伝の物は渡したり、心に掛る事なくて、自ら首をかき落し終に空しくなり玉ふ。永禄十一年戌辰十一月八日の夜とぞ伝へける。

           館には下人・下女等、され共甲斐甲斐しく真之公の遺骸を取かくし、亦一滴も敵に見せじと取かくし、八方に逃げうせしほどに、敵軍乱れ入り、人ひとりも見えぬと疑ひ、伏勢あらんもおぼつかなく、遺骸にも気が付かず、我先にと退きけり。され共、屋形人なければ、丈六寺へ送り葬る事叶はず。かりに鶴林の法印、焼香をねがひ、任□常英居士と法名を安じ、後に丈六寺に改葬して、宝昌院殿傑叟常英居士と改むる。この真之公、寿三十満でにてはあるまじく、生年知れざる故に記さず。  (三好、大井屋形を襲ひ真之公生害の事)

 

(航空写真は国土地理院(昭和22年)を使用。拡大は画像をクリック!)

 

 

           中富川の決戦も終わり1ヶ月が経ち、ようやく混乱状態が緩和しつつあった10月8日夜、仁宇谷の細川真之の居所は突然、山賊のような武士団に襲われてあえない最期を遂げてしまった。確かに真之が元親に下っていたことは間違いなく、中富川の合戦でも嫡子の之照が土佐方で活躍しているから(⇒)、その真之を殺したのは三好の残党だろうと考えるのは当然の成り行きかもしれないが、十河存保がすでに讃岐に脱出し三好家臣団が壊滅している状態で今さら真之を討ったところで何の利益があるのだろうかと思うし、ましてや元親の下で細川氏が再び阿波国主になる可能性があるのならともかく、おのれの主君である土佐一條氏さえあからさまに追放し、自ら四国の覇者を宣言している元親にそのような殊勝な考えなど毛頭ないことは最初から双方の諸将にとって周知の事実であるから、果たしてこれが事実だろうかと疑わざるを得ないのである。

           一方、真之が楯籠もった仁宇谷(現在の和食、太竜寺ロープウェイ山麓駅周辺)には、指呼の間に湯浅対馬守兼朝が護る仁宇城があり、真之は”茨ヶ岡”に別に屋形を構えていたので、いわば湯浅氏の客将のような存在であった。この湯浅氏は真之の勝瑞脱出時の家臣団にも名前はなく、どのような主従関係にあるのか今のところよくわからない。ただ、「長元物語」に「一.同国山分に”にうとの(仁宇殿)”と云ふ知行高の侍、土佐に降参に付て、元親公御親類聟になさる。これによりその山分の小侍衆も人質を出し、御存分になる。」とあり、これが真之の死の前か後かは別にしても、元親公の親類になるという、余程の活躍か謀略に貢献をして過分な取り立てがなされている点からも真之謀殺の張本人として実に怪しいのである。仁宇城と茨ヶ岡は目と鼻の先であるから、万が一、三好の残党が雪崩れ込んだとしても見殺しにせざるを得ない状況にはなり得ず、数百人もの逆徒の来襲に隣の仁宇城が気づかない筈もないから、なおさら勘ぐらざるを得ない。討手の中に「江村(江彦とも?)治部大夫・本木新左衛門尉・江村兵衛之進・露口兵庫」と何となく土佐侍を思わせる姓氏があるのも“クロ”を感じさせる。結局、中富川の決戦以後の混乱に乗じて邪魔なだけの細川真之を新開道善や一宮成助とともに一気に葬り去ったとするのが一番素直な考えではないだろうか。湯浅氏は後年、蜂須賀氏入国に当たって一揆(⇒)を起こしたことが知られているが、民衆を慰撫するために、長宗我部氏に滅ぼされた一族を家臣として再び取り立てることは見せしめとしてよく行われる為政策なので、元親の下でかつての主君筋を殺したことが発覚するのを恐れて頑強に抵抗することは充分に考えられるのである。特に「細川家記」には、わざわざ蜂須賀家政が細川之照を尋ねて仁宇谷一揆の討伐について相談したことが記録されているのも、案外、そんな裏事情があってのことかもしれない。それでも、同書が「三好いかで父兄の怨を忘れん」と三好陰謀説を採っているのが不可解ではあるが、作者は、一貫して平島公方と細川氏が正義であり三好氏は敵という下剋上以前の足利幕府正当の立場を貫いているので、後年に私見と推測を交えて書かれた物語としてそのように設定せざるを得ない気持ちがわからない訳でもないのだが・・。諸兄のご意見を待つところである。

なお、「南海治乱記」には真之の死についての記載はない。南北朝時代の四国細川氏の濫觴が詳しいだけに、その終焉について書かれていないのは実に残念なことである。同書は「三好記」を参考にしている箇所が多いのでなおさら不思議に思えてならない。また子孫の手になる「細川家記」は真之の死を永禄11年としているが、この年は御年30歳でまだ勝瑞に起居していたから明らかに間違いだし、命日の11月8日も何を根拠にしているのかは不明である。天正を永禄、10月を11月と勘違いしたとも考えられるが自分の父祖の命日を間違うのも謎としか云いようがない。真之の死を巡っては何か別の真実が隠されているのだろうか?・・可能なら丈六寺にあるという真之の位牌を実際に確認してみたいものである。

 

 

 

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