細川家記・・・・此年六月二日に、明智光秀信長を伐ちし事、山城(三好笑岩)これを聞きしより、取る物も取りあへず、大軍を催して都を指して上りける。土州へ此事聞えしかば、元親大いに喜び、二万騎を駆立、能折からとて、即時に阿州へ攻入ける。三好孫三郎存保は実休が次男にして、兄長治の家督を続ぎけるが、元親攻来ると聞きしより、六千余騎を引具して、中富川原に出張して、相待つ所に、元親推(押)寄せ、両陣ときの声を合はせ、火花をちらして戦ひける。石見(細川)之照は廿二歳の若武者なるが、三好は祖父と亡父のかたきなる故、元親に与力を言葉にして、実はあだを報ぜんと、三好存保に目を凝し、歩兵に紛れ立居たり。これぞ大将存保とみしより、流星の如く打て掛る。三好の一族馬詰三四郎と云ふ者、大将を討たせじと、つつと出て遮るを、石見思ひの外に碍(さまたぐ)るを怒り、持てる鎗にて忽ちに突き倒す。余りに強く突し故、石に突当て鎗を先が折れてけり。すかさず上に乗り、膝にてじつと敷付けて、首かかんとせし所を、存保馬にかけ寄せて、長刀振って払ひしが、石見があばら骨三枚かけて切りこみたり。され共石見事共せず、首かき落すを見て、恐しくや有けん、馬を打て、軍兵の中ヘ逃込みける。石見すかさず存保を追ひけれ共、行方を見失ひ、外の敵に心なければ、少心緩むに随ひ、あばら骨の痛強く、血は流れて肌をめぐる。鉄砲の流れ玉、身にうち込んで痛む故、東西を分きやらざりけり。両陣共に、戦ひ屈して相引に引く。元親が軍も、兵粮を遣ひ休息しければ、三好が軍も城い入り、門を閉ぢて日も暮れけり。

           土佐勢は是を見て、城に近き備を立て、城を一呑にせんと責寄せたり。時に俄に天気変り、大風石を飛ばせ、大木を吹折り、大雨ふり続き、天地黒闇となり、山谷も崩るる計にて、諸軍肝魂を失ひ、うろたへ恐るる斗なり。次第に夜深かに随ひて、水の勢ひ強くなり、大海の浪に異ならず、野も山も、一面の水渺々として、丘・陸地も見わかたねば、軍営の移すべき所もなく、軍兵将卒共々、殊の外くるしみ、兵粮調ふべき手立なく、おめき叫ぶ其声と、水の流るる音共に夥しき有様なり。水の増すに随ひて、馬をば大木の枝につなぎ、鎗・長刀をば民家のむねに植並てぞ見たりける。さるに依て、飢て溺れて死するもあり。疵負ひて病む者も非業に死す。あはれなりける事共なり。城の内には是を見て、得たりかしこしと、矢を射る事雨よりしげく、鉄砲の玉あられの如し。され共兎角して時を経る程に、次第次第に雨も止み、水も減じて見えければ、軍中蘇る心地して、気力を直し、勢ひ漸くつきにけり。夜明て、三好城外に出張して、時を合せて相戦ふ。城兵は風雨に苦しまざれば、人馬共に勢ひ盛んにて、まくり立てて戦ふほどに、元親も破り得ず、退いて陣をぞ取りたりける。

           細川石見守は、心専ら存保を心掛くる故、肯て退かず。雑兵に紛れて城近くたたずみしが、人を改め、城門をとぢし故、入る事も叶はず、以ての外に疵の痛つよく成り、殊さら雨顕を受し故、瘧疾発して寒熱に侵され、目もくらみ、人に支へられて、とある藪蔭に、石を枕にして、夢の如く観音菩薩を念ずれ共、夢かうつつかわきまへず。漸々熱も醒め、目をあけて天を見たれば、月中天に明々心地も少し快く、夜半斗のことなるに、四方閑にして、茅根を吹過ぐる風の音、伏勢やあると怪まる。犬のあらそふ屍、右や左やあとやさき、魂驚き、夜廻りのささやく足音、耳にひびきて物すごし。石見、少し枕をささへ、頭を上げて見てあれば、月影に白き馬放れ来るを見るままに、身方か敵の馬かとよ、馬具も手縄も具足して、実に喜ばしく思ひければ、漸々に起きあがり、馬に向へば、其馬も、手馴し馬の迎へに来る如くして、蹄をそろへて立たりけり。石見怪しく思ひながら、手綱くり上げ、ひたと騎り、元親が陣へと引廻せば、程なく軍処に入りにける。諸人驚き、何方にかと思ひしに恙なくて皈(かへ)らるる、いかなる子細と、口々に問ふほどに、石見、しかじかの次第、有のままに語り、先祖伝来の菩薩の像、我胎中にありし時、又真之の母に譲りし事共、一々にいひければ、諸人手を打ち感じける。石見申されけるは、今後陣中の働き、某甲(それがし)が勇力にあらず、菩薩大悲の守護によると、守袋の中なる一寸八分の金銅の像を取出し、諸人に拝ませ感じける。  (石見長曽我部に与力する事并びに観音の奇瑞の事)

 

 

 

           この物語に登場する細川石見守之照は、細川持隆の孫である。三好義賢に持隆が殺されると()、嫡子の真之は義賢の主君を主君とも思わない態度に辟易していたが、三好氏の力が強大なため勝瑞で隠忍自重する日々を送っていた。義賢から長治の代になるとさらに横柄さは度を越し、母を同じくする兄弟とは言えこれに絶えかねた真之は、天正4年12月、遂に勝瑞を脱出して仁宇谷(鷲敷)の天険に楯籠もった。それを攻め滅ぼうとした長治が、一宮成助と井澤頼俊の裏切りで逆に自害に追い込まれたのは周知の通りである()。その後も真之はここを本拠地としたが、長宗我部の侵攻に伴い新開忠之や東條関之兵衛と同様、元親に降参、臣従したことは容易に推察できる。そうして、中富川の合戦である。この合戦に真之は出陣せず、代わりに嫡子の之照(六郎)が元親勢として参戦した。この之照は一時、久米田の戦いで義賢(実休)を討ち取った畠山高政の養子となったが高政衰微の後は平島公方の義助(義榮の弟)に身を寄せていた。十河存保は三好家惣領であるから、之照の叔父とはいえ祖父の仇を伐つ絶好の機会と捉えたのだろう。文では父(真之)の仇ともなっているが、これは「細川家記」で真之の死を永禄11年としているからで、実際には中富川の合戦時、真之はまだ存命しており作者の誤謬である。攻戦中、存保と渡り合って肋骨を切り込まれたことや、それでもどうにかして勝瑞に忍び込もうとする執念、月光が煌々と照らす中で痛みと熱にうなされながら夜間の戦場に横たわる恐怖、心静かに仏を念じていると不思議にも眼の前に白馬が現れる様子などが臨場感豊かに描かれていて、読む者の心を打つ。実際に存保に切り込まれたかどうかは定かではないが、後年、入国した蜂須賀家政が尋ねてきて疵を見たことや、慶長元年にこの疵が元で亡くなったことが克明に記載されている。持隆(1497〜1553)、真之(1538〜1582)の年齢や、之照が36歳で死亡したという記述などから、之照が二十歳くらいで中富川の戦いに参戦し負傷したというのは事実なのだろう。

 

 

 

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