南海治乱記・・・天正十年八月六日、香西伊賀守、土佐方に降して後ち、先づ兵を引て国分寺に帰り東方に発向せん事を議す。香西氏、拝礼の為に香西加藤兵衛、片山志摩守を遣はす。謝礼事終て東兵の事を議す。加藤兵衛が曰、是より東方に於て此の大兵に出向ふべき者一人もなし。十河の城に存保の名代に三好隼人佐が居ると云へども城を出る事有べからず。名城を頼で相守るのみなるべき也。長曽我部親政、其意に同じて八月十一日、国分寺を立て東方へ赴く。其兵一万余人、伊賀守が兵一千余人を以て馳加はる。香西氏も地戦には六千と云へども近年内乱して綾郡の兵将離心して与力せず。香西香東二郡の兵四千人の積なれども我が境内に敵の入たる故に、子女に附て巣穴に入しめ藤尾の城に込る者三千人あり。其内、伊勢の馬場合戦に千余人、西光寺前合戦二千余人、手合ぬれば城を守たる兵千余人ばかり、新手なれば兵衆疲れて漸く千余人の兵を三手に造し、香西加藤兵衛、植松帯刀、其の子左衛門、唐人弾正、片山志摩守等を兵将として東行す。
十河の城には西方の大兵向ふよしを聞て城中の兵将を減じて永籠城を計り、逞兵を勝りて一千人、三月の粮を積て籠城す。敵兵、一万余人、山田郡に入て秋毛の刈菽禾(かったマメやアワ)をひいて人馬の食を足しむる程に、幾日もなく野を清(すす)み凡民の寄べき便もなく四方に惑ひ行く事踈まじき事也。十河の城と云は、三方は深田の谷入にて南方平野に向ひ大手口とす。土居五重に築て堀切たれば攻入るべき様もなし。土性生実にして匈配(こうばい)を用いず切立なれば、堀を越え塀を登ると云事曾て成らずして力攻に及ばず、万余の兵衆篝火を焼き四方を圍み田の中に道を築て四方より攻口の用をなす。城中にも鉄砲多くして四方の樓より放つ程に築道も半途にして止ぬ。香西氏が陣は西の方に当て城に並び、流出たる阜(おか)の尾なり。城の樓と二町許り有なん。先年、能島と合力して異国へ渉たるとき求め得たる大鉄砲二挺あり。是を運輸して右の樓に仕懸け段々と放ければ、樓傾敗敗して人影を見ず、それより東西の攻口へ持行て玉薬の用ある方より放つ程に、城中いたみ外へ動くべき用なし。内に守るべき方術もつきぬ。又其中に前田甚之丞が徒、四方の陣の隙を計り夜討して粮食を奪ひ取る事数回也。或は旗を取られ或は兵具を取れたる陣は数多也。八月中在陣して郡中に求る粮なく国遠くして運送の用も続ざれば、長陣も成ずして兵士を故郷に還し三千人の将は千人止り居る也。九月廿六日、敵も長陣に疲て夜の守りも緩くなり城中も疲て戦ふべき気力なし。
三好隼人佐ひそかに前田甚之丞を呼で曰く、敵方、長陣に疲れて怠慢あらんと欲す。此時、諸手にかまはず長曽我部が本陣を窺ひ能き隙を以て夜討して親政を打取らば惣兵皆退散すべき也。汝必ず能く計るべしと命ぜらる故、数日にして案内を知り我が手の功者の間に二百人の内より五十人撰て内に入り百五十人を三處に立て、内の相図を以て外より攻入る。其時、内にて敵に紛れ交て撰伐にする程に頭分の者数人伐捨けり。闇打ちして帰りしが多分は親政を撃ぬらんと思ひしに親政は遁れぬ。夜中に陣中騒動して上へを下へと返せども、敵は夜討の達人なれば其のしほ知て引取たる故に一人も死せず。其後、甚之丞、隼人佐に告て曰く、謀は人智にあり、死生は人運にあり、此度親政を殺ざるは長曽我部氏の運つよき故也。其の得失を計て降参し三好家の運を伸べ玉はば智と云ふべき也と申すと也。 (西方諸将、東方十河城に発向の記;巻之十二)
元親記(中)・・・角て讃州の議は、西半国は以前に手に入る。東讃岐境に十川と云ふ城あり。この城は三好同名隼人佐之を持つ。元親卿三好合戦の砌より、境目迄西衆押詰め元親を待つ。この寄手の人数、頭分香川殿・同舎弟観音寺殿、長尾城主国吉三郎兵衛尉、新名城主入交蔵人、宝田城主中内源兵衛、羽久地城主谷忠兵衛尉、大西上野守、是より阿州河の江の城主妻鳥采女、馬立・新居・前川・金子・石川、長曽我部都合この勢一万余、先づ十川表へ打寄せ、城廻在々民屋へ発向し在陣す。
扨て天正十年十月中旬より、岩倉よりそよ越と云ふ山を越え、十川表に打出で給ふ。則ちその日、西讃岐、予州勢、阿波分の人数一つになる。三ケ国の人数に予州六頭の勢を差加けたれば、三万六千の人数夥し。則ちその日の暮に十川の城へ矢入あり。暮本より夜半計迄、鉄砲の音誠に天地も震動する計なり。十川の城をば塀一重にはたけだて、その儘打置き、平木と云ふ所に付城をして、讃州・予州衆を番手に云付け置くかる。東讃岐の在々、牟連・高松・八九里・矢嶋の浦々残らず発向し、元親矢嶋へ見物に渡給ひて、寺の院主に古の事ども語らせ聞給ひき。兎角すれば、冬になり、雪深くしては国元より兵粮以下の運もなりがたきに付き、先づ帰陣ありしなり。 (岩倉之城落去以後直に讃州へ打越さるる事)
香西を攻略した土州軍は、国分寺で軍議をなし、時を移さず東讃岐の十河城に向かって進軍を開始する。最も苦しいのは香西氏で、領内で激戦に及んで死者の弔いもまともにできないうちに東征の先鋒を務めざるを得ない状況で、全軍の3分の1に当たる千人ほどが香西加藤兵衛と植松帯刀らに率いられて参戦できたに過ぎなかった。十河城までは敵なし、とは言うものの途中には由佐城(由佐氏)や王佐山城(三谷氏)、池田城(池田氏)、戸田城(植田氏)など植田一族の城が点在しており、一つ一つの攻略にはそれぞれ落城の悲哀があった筈だが、今、それを伝える文献はほとんど存在しない。由佐城や八栗城などについて「由佐長曽我部合戦記」や「八栗合戦記」(香川叢書第2巻所収)などが例外的に残っているに過ぎない。ともあれ、土州軍は9月に発向して10月にはすでに十河城を包囲しているから1ヶ月ほどでほとんどの城は落城や開城を余儀なくされたと思われる。結構、激戦であった由佐城と王佐山城の戦いについては、項目を別にして改めて記載しておいた(⇒❡)。
さて、十河城を包囲した長宗我部軍も、この城が意外に堅城であるために攻めあぐねる事態となった。苦戦を打開するために香西軍が提供した”大鉄砲二挺”というのはフランキー砲(⇒❡)のような当時最新鋭?の舶来物であったのだろうか?水軍を保有する香西氏がそれを入手し得たとしても何ら不思議なことではないのだが・・。砲弾を打ち込まれても一向に動じない城代の十河隼人佐存之は、前田甚之丞宗清と謀って、堀の水中に丸太を見えないように並べておき、それを夜間に渡っては掠奪やゲリラ戦を繰り返して土州軍を大いに悩ませたという。今や敵となった香西氏の城にまでノコノコと出かけていって強盗を繰り返す鬼甚之丞様の”活躍”もこの頃の話である(⇒❡)。極めつけは、秋も深くなり遠征に厭戦ムードが漂い始めた土州軍に向かって大将の香川親和を討ち取るべく乾坤一擲の夜討をかけたことで、味方に死者は出なかったものの惜しくも失敗に終わった。さすがの甚之丞もさぞ切歯扼腕して悔しがったことだろう。そうこうする内に季節は冬となり、包囲する一部の軍勢を残して土州軍は帰国の途についた。中富川の決戦も勝利に終わり四国統一が目前になった余裕もあって、十河城の始末は来年の春、元親自身の来陣を待ってからに持ち越しとなったのである。なお、「元親記」では元親がこの10月に来陣し屋島見物をしたような記載があるが、実際は翌年の春になっての事である。