南海治乱記・・・天正九年の秋、存保、阿州へ帰国の後、十河城粮米乏しく、多兵飢に及ぶこと以て切也。その故は天正六年より旱魃霖雨旁々以て凶年打続き、五穀みのらず国民餓死に及ぶ所に、土州の敵乱入して民屋を放火し、乱妨防ぐに勝へず。然も十河城には存保、先年、堺の所司代たる時の領、信長の世に至ても三好笑岩、信長に降せし故に天正八年まで相変らず領収せり。堺より讃州屋島まで運送し、屋島より十河城に運び入るる也。屋島寺の住僧は十河姓の人なる故に伝次をなす也。然る処に天正九年、凶年の上に同十年九月より圍まれ十月より附城を以て海陸共に通路を止めまれて城内困窮して救ふべからざるに至る。是に由て三好隼人佐、勇力の強盗を仕立て諸方を廻し、夜討をなして人を財産を奪ひ取る程に、国民士卒共に十河をうとみ果る計也。敵にてもなき人を殺し不仁不義はかりなし。其の張本人、前田甚丞と云者は六具して鎗に角取紙を附て指物し弓矢を持て六尺の塀を越る軽業の者也。殊に弓は百矢を外さずして人の恐るること甚し。幼児を畏(おど)すにも甚丞がそれと云へば啼く子も止ぬ。僅に五十人計を以て小城を落すこと数多也。山田郡木太郷、真部が城は数代の居城にて溝壘堅固の城也。いつも出陣には三百人にて出る。五畿内へは二百人、国内には五百人を率る兵将也。家人はみな農業をなす故に郷内に分散して居城には常に住せず。其隙を知て五十人を以て竊に入て真部子供仕女まで伐殺し財物粮米残らず奪ひ取る。其後、笠井郷の佐藤が城、堅固に搆たる城なるを竊に入て父子三人打殺し資財粮米ことごとく奪ひ取る。其外、農民の土居搆を破り京より頼て田舎下の公家衆富人などの居所へ押かけ情なく殺し奪ふこと言にも尽し難し。存保は智勇を兼て仁心もある人なれ共、生れ合の所悪敷してかく不仁不義の名を受玉ふこそ惜きことなれ。五畿七道ともに乱て盗賊国々に盈ち人心を失ふて虎狼の如し。今、聖世に生れて乱世の人を誹るべからず。 (讃州十河城、兵粮の記;巻之十一)
十河城が長宗我部の大軍の囲まれると、城内は著しい食糧不足に陥った。存保の留守を預かる十河隼人佐存之(⇒❡)は、縁者であり家臣でもある前田城主の前田甚之丞宗清(⇒❡)に食糧調達を命じたのだが、前田はそれをあたかも「鬼平犯科帳」でいう”畜生働き”や”急ぎ働き”を地で行くような荒っぽいやり方で、やりたい放題やってしまったのであった。それも自領ではなく香西家家臣の領地で、おまけに領民ではなく領主の屋形を襲いまくったから、血縁のある香西成資に末代まで記録される羽目になった訳で、その凶暴ぶりは「幼児を畏(おど)すにも甚丞がそれと云へば啼く子も止ぬ。」とあるように、“泣く子も黙る鬼甚之丞様”だったのである。一方の“木太の真部”といえば、「チロリ真部」の異名を取る剣豪の真部五郎助光(⇒❡)や、成就院事件(⇒❡)や西庄城攻防(⇒❡)で勇猛な立合を見せた弥介祐重などを輩出した豪者の家柄だが、留守を預かる家人だけでは為す術もなかったのだろう。佐藤城の佐藤氏も同様で、一城を預かる領主宅を、一城の主が攻めたのだから、これはもう宣戦布告と取られても仕方がない状況ではあった。十河城が降伏するとき、元親にこの事件を激しく詰られて存之が平伏して弁明せざるを得なかったのも、単なる強盗殺人事件ではないと認識されたためで、讃岐の田畑を踏み荒らした元親にだけは言われたくはないが、一応は元親の言い分も納得できるのである。前田甚之丞は十河城攻防に際して武士らしく功名も挙げているが、その後については不明な点も多い。ただ、香川大学医学部近傍に「甚之丞の墓」があり此処で戦死したという伝説もあって、前田城趾とともに今も子孫の手によって大切に守られている。一方の真部氏は「三代物語」の「向城」の項に「其後、士と成り庶と成る者衆し。新居に居る者は其の嫡流にして、今に於いて最も貧賤也。」⇒❡)とあるのは、この時の皆殺しが多少は関係しているのかもしれず、分家は大庄屋などで結構、繁栄しているだけにお気の毒に思えてならない。