南海治乱記・・・天正十二年、土州の大軍を擧て再び宇和郡美間郷に出陣す。是は先年、久武内蔵助不覚を取たるに味はふて美間郷の城持ども我境目を越て度々取出るに依つて元親より、前の内蔵之助(親信)が吊(とむら)ひ矢を射させよとて後の内蔵助(親直)に幡多の兵将五頭付て指向らる。伊予の地衆には北之川衆并菅田、魚無、河原淵、西之川衆又土州元親の扈従分指加て其の奉行人には本山将監、福富隼人、扈従頭桑名藤七等凡そ八千余人、先づ河原淵に著て軍列を定め美間表へ打て出で、先づ其の手先なれば深田の城に取寄る。又手分して岡本、高森の城の発向す。高森より山下を下り二十町ばかり取出て禦ぐ處に幡多の士、国澤越中と云ふ老武者唯一騎かけ出し即時に敵を追上る。深田の寄手より是を見て追々に馳続く。山下の家を焼き小屋を破り越中手柄して引取たり。さて深田にて桑名彌次兵衛は越中に逢て、老の無用骨折に候と申ければ越中申けるは、年老て臑(かいな)は弱く候へども馬さへ対(こた)へ候はば心は昔の越中にて候とて咲(わらひ)し也。

           さて深田の城主十日ばかり過て降参を乞ひ人質を出し城を出て禮を申す。其外の城々へ手分して稲を刈って山下に発向す。土居城へは元親の扈従分を以て向しむ。敵、山下へ取出で山の根の小屋を拵て西の谷口を禦ぐ。扈従與の内より四人山下へ出たる敵にかかり攻め上る。其敵少し上りて又返して合戦す。又扈従與九人攻め上り十三人して追上げ小屋を破り家を放火し午の下刻より申の刻まで戦に取詰て引ず。其内に手負も出来ぬ。扈従頭桑名藤七、二人の奉行人より下知して急ぎ引取べしとて吉松治郎右衛門を遣はす。若者ども誰も先に引べきとする者なし。二度目に岩村七左衛門を遣し三度目に白川與兵衛、島田可右衛門此二人来て早や日も昏ぬ。急ぎ引く可しとて各々を引立引立して引する。少し足床を引退ぞく處に敵附て出る時、一同返し合て鎗を合する。十三人の内、中島彦五郎、鎗下にて敵を打取る。其の敵を逐上て引取る。十三人を書立て奉行方より元親に達す。即、十三人一紙の書を賜る。

           さて高森の城主、中野某は深田の城主が縁者とるを由て深田氏が取扱ひを以て降参す。今三ヶ所の城主ども奉行人まで申達するは、此の美間郷は板島の西園寺の旗下也。今度我々ども死生存亡の究る時に至ると云へども加勢もなく後巻もなし、一切不通なり。是に因つて各野心を存するの間元親に服従すべしと、かく三人は一致に申合せて降参すべし。迚も幕下に参る者どもが一戦に及て御悪みを蒙んも益なし。一両年中に久武殿まで人質を出し申すべしと誓紙を以て申す。奉行人諸士僉議して曰く、此段は疑べき事に非ず、元親の意に受るに及ばずとて約諾をなし美間の郷を平治して二人の将の人質を取て還る。後の内蔵助も家兄に劣らぬ智勇の将にて其の職を掌る也。  (再び美間出陣記;巻之十三)

 

 

南海治乱記・・・天正十二年、宇和郡の奥に多田某と云者あり。旧姓なり。此の兵将土佐方へ服従して発向あるべき事を乞ふ。即、久武内蔵助六千余兵、幡多四組六千余兵、伊予七人の兵四千余兵、凡そ二万人を以て多田へ打越し陣取て南方へ発向す。即、戦勝て城を攻る時、降参を乞に因て城中の者どもを萩の森へ送り南方の城より手分して方々ヘ発向す。山田、熊崎両城も降参し人質を出す。これより黒瀬の城へとりかけ城の手前、松葉の町を破る時、伊予の曾根氏先手として曾根が兵士多く戦死す。此の町を放火の時、其日日蝕にて方角見へず、敵城へ行かかり蝕晴れて見れば深入仕たる故、先手の者ども引取るに西園寺居城の人数千ばかり出て土佐の兵の引くに附来る。土佐の兵は引伏して伊予の西の川の後殿として敵を釣り引く。敵、急に付来り侍二人討せて後、西の川が懸たる母衣に二太刀打つ時、引返し組打して首を取る。それより敵も附来らず、西の川も三百余人の兵将也。自ら取たる首を持って物頭衆へ向って曰く、幌を二太刀切られ後返し候へば臆病にて物早く返すやとの御心中はづかしく候と申しければ敵を釣引くには最なりとみな人これを誉る。

           又、宇和郡の土居、岡本、深田、金山、刈田の時、敵方々より来て合戦すべき催ありと見て夜中に人足を退け夜明て小屋に火をかけ煙の下より引取る時、敵しきりに附来る。兵将四人談合して物陰に兵を伏せて敵を討べしとて諸将の中より十市備後守を釣手引とす。敵、急に附来り備後守止む得ずして引返し附来る敵を逐返す。伏兵有る所まで引き附けざるを以て不是とす。又、宇和郡瀬並と云所を引取る時、敵稠(きびし)く附来る。武者頭の談合にて平地に伏兵をなして敵を討べし、先づ先立つ敵を追返し立留る隙に兵を引取り兵備をなすべしとて平地に十人引伏して先立つ敵を追立つる處に明勢立止る。其間に身方の兵を遠く引取って人数を立固むる。是を土佐衆の引伏とて日本に名を得たること也。又、宇和郡深田の城を圍む時、敵城より再々夜討をなすに由つて城の大回り二里餘りに柵を附け其外に堀をほり敵の出でざるごとくにし、身方も柵を附て柵の内に陣取り二十餘日攻むる也。其中に樵木を以て城樓を上げ土俵を以て仕寄を附け塀一重に成つて後、深田氏降参す。城知行ともに前代の如く相違なし。  (奥宇和出陣記;巻之十三)

 

 

 

南海治乱記・・・天正十二年、宇和郡の内、御荘越前守と云兵将あり。名家の末也。城五つ持て大身也。本城、里城、緑、猿越、新城等也。猿越の城は土佐の宿毛より三里の山越也。宿毛城主は長曽我部右衛門大夫也。又吉奈より猿越へは五里也。吉奈の城主は十市備後守也。此の十市、才覚を以て猿越の城を抜く。右衛門大夫程近く居て十市に越されて口惜く思ひ我が組手前の兵を以て緑の城を行きかかりに乗取る。其の近所、新城と云ふは両城の落ちたるを見て明退く。右三ヶ所の城兵、本城につほみ入る。宿毛、十市は我が取りたる城に居て助け来る大将、桑名彌次兵衛、光富権助、其外城持衆、物頭衆を待付、右衛門大夫申さるるは、此の兵勢を抜さずして越前守が居城に附城を搆へ我に渡され候へと申に附て、越前守が城より十五町間を置て城を築くこと其日数十九日也。兵士は敵城を三方より押し緘み日々に鉄砲打合あり。下々は附城の堀をほり柵を附けさせ昼夜の境もなく攻めければ、敵も三ヶ所の兵一所に集りて多兵になりたるばかりにて何の仕出す事もなし。攻手も日々に三方より取り緘み責戦ふばかりにて勝負は究らず。或時、土佐方の侍七十餘人、敵城の大手口へ深入りして手負八人あり。引取ること成りがたし。其時、引取の加勢に二百人差出す。物頭は若侍なれども兵将の立ようよく裁判節に当れり。是故に敵も附来らず。老功の兵将たちも取々に誉めたり。又身方の陣所に火事出来たる時も敵城打震ふて出て合戦に及ぶ事あり。此時も一方攻手より跡(後)の城に矢入りせし故に敵引取る。又、谷頭の峠にて両方鎗衾を作る事もあり、夜討に騒しむる時もあり、昼夜鉄砲攻合隙もなし。附城出来て天正十一年二月より明る十二年正月まで附城に在番して間隙なき故に御荘越前守、是非なく降参して人質を出し和平になる。

           宇和郡の城持の兵将、地利を得て城郭を搆へ切所を取って戦をなす故に数年の間の戦には勝つと云へども小身なれば相及ばずして終には領内を侵し掠められて民庶困窮し士卒疲労して領内を保守する事能わずして土佐方へ降参す。若し降参せざる者は城を明捨て侘方へ没落す。故に黒瀬の西園寺を始めとして白木、土居、金山、岡本、高森、板島、岩井の森等の城主皆人質を出して土佐方へ成る。各所領居城相違なく賜って年始の直禮迄の規式也。宇都宮は西伊豫にあり。松山の城を居城とす。保守する事を得ずして中国毛利家を頼んで小船数多に取乗り芸州へ引越す。徳居は興居島に居し来島は来島に居し海島なれば土佐方より制せずして人質の沙汰なし。西伊豫二郡は剛敵なれども小敵なり。殊に山険の地にして大軍を合せて一戦に事済ふ所にてもなし。又、隣国の大敵援兵を出すべき所にてもなければ元親、一度も馬を出さず、家臣久武、桑名等に命じて幡多郡の兵卒を以てこれを治しむ。是故に天正十二年まで懸つて漸々に攻伏す。中伊豫中郡は河野家世々の領地にて大名なれども元親賢き謀を以て、其の家臣を誘引して土佐方へ属せしめ、戦に及ばずして河野も人質を出し元親に降す。故に四国一統して元親の志ざしを遂ぐる也。  (宇和郡御荘越前守降参記;巻之十三)

 

 

 

元親記・・・・・この美間表の儀は、先年久武内蔵助不覚を取りし所なり。是に味しめて度々境目へ取出で働くに依て、内蔵助弔矢と号し、美間表を取敗(破)るべしとの評議なり。かの表の城数深田・岡本・土居の城、高森・金山とて五つの城一目に見ゆる所なり。寄手は幡多五頭、久武次男内蔵助の一手、登(北)川衆、菅田・魚無・河原淵の一覚(党)、西の川、又元親の小姓分差し加へらるる。小姓分の奉行は、本山将監・福富隼人佐、小姓頭桑名藤七、都合その勢八千余騎、先づ河原淵へ着陳す。天正十四(二)年八月の末つかた、美間表へ打寄せる。先づ手寄故、深田の城を取詰め攻める。この城攻めの間に、手を賦(わか)ち、岡本・高森の城廻りを発向す。斯りける処に、高森之城より山下を囲みて、敵廿町計り取り出で之を禦ぐ。幡多の國澤越中と云ふ老武者、只一騎懸出し、則時、敵を追上る。深田城攻めの所より先づ是を見物す。追々馳続き、山下の家を焼き、小屋を敗り、越中手柄して引取りたり。扨て深田にて桑名彌次兵衛、越中に、老の無用の骨を折り候と申しければ、越中、年寄りてすねは弱りて候へども、馬さへこたへ候へば、心は昔の越中にて候間、若き衆にも劣る間敷と申して笑ひしなり。扨て深田の城主、十日計ありて降参を乞ふ。則ち人質を出し罷出で、各へ礼を申す。

           さて残りの城々へも手を分ち、稲を薙ぎて山下を発向す。土居の城へは小姓分なり。斯りし処、敵山下へ取出で、小屋を囲みて西の谷口を専らに禦ぐ。小姓分の内、四人山下へ取出で、敵をせり上げたる敵の足床を取る。その敵、又上にて通り合戦す。又小姓分九人打続き掛上る。合せて十三人して敵の足床を取り、小屋を敗り家を放火し、午の刻より申の刻迄、戦に取結びて引かず。その内に手負も出来す。右の奉行、将監・隼人・藤七、三人より、急ぎ引き候へと、吉松治郎右衛門を遣し候へども、皆若者共なれば、誰先へ引くべしと云ふ者なし。又二番目に岩村七郎左衛門を遣し、是にても引かず。三度目に白川与兵衛・嶋田可右衛門を遣し、この二人来て急ぎ引き候へ。早、暮に及び候と申して、引立引立してひかする。少し足床を引きし処、則ち敵付て出る。この時又、一同に返し合ひ、既に鎗を合せる。十三人の内、中嶋彦五郎鎗前にて一人討捕る。又それを追上げ、手柄して引取りたり。則ち右十三人を書立て、三人の奉行より言上す。元親卿より感状一紙にありしなり。残る城々を取詰め攻むべきと手分をする処、高森の城主中野は、深田の城主の縁者たるによりて、深田肝煎を以て降参す。

           今三ツの城主等申分あり。この美間郡の侍共、板嶋西王寺(西園寺)殿の籏下なり。然る処、今度我等共十死一生の気遣に及ぶといへども、已に加勢も之無く、後巻の手立もなく、一切不通申すなり。この遺恨に依て何れも野心を捽(抱)き候。兎角三人の者共は、一致に申合はせ、追て降参致すべし迚、御下へ参るべきものか、我等共も散々に攻敗られ、御軍兵にも骨を折らせ、以来の御悪を招かんより、両年中に久武殿まで御意を得、人質を出し申すべき事、一言一句偽之あるべからずと、誓紙を致す。この上は元親卿へ窺ふに及ばずとて、右降参二人の人質を取り、帰陣仕り候しなり。 (預州美間陣の事)

 

 

 

 

長元物語・・・・一.宇和郡の奥に多田殿と云ふ侍、逆心の由注進あるに付て、土佐より久武内蔵介六千、幡多郡四人の組六千、伊豫侍七人の人数四千、この分、則ち多田へ打越し陣取り、両方へ相働き、首数も大分取る。則ち城を攻むる時降参を乞ふ程に、城中の者共を、萩ノ森へをくられける事。

        一.多田へ人数を打越して両方の城を取る。方々働く故、山田・熊崎の両城も降参仕り、人質をぞ出しける。

        一.黒瀬が城ヘ働く時、城より手前松葉町、この町を破る時、与州の曾根殿先手にて、曾根衆数人討死す。この町に火を放ちける時に、折節日蝕にて方角も見へず。敵の城ヘ行きかかり、日蝕もはれ、みれば深入りしたり。先手の者引取らんとする時、西園寺居城の人数千計、土佐衆の引くにつけ来る。土佐の人数引くふうして、伊豫侍の土佐方西の川、しつぱらいの(尻払い)のつり手を引く。敵きうにつけ来り、侍二人討せて後、西ノ川をかけたりける程に、二太刀打付けられ引返し、組討して則ち首をぞ取りたりける。それより敵もつけ来らず。西ノ川も手人数を三百余持ちたる大将なり。取りたる首を持ちながら、物頭衆へ申されける様は、はろ(母衣)を二太刀切られて後、返しては候へども、臆病にて候もの、はやく返すや、と御心中耻しく候と申されける。見る人これを誉めぬはなかりけり。

        一.宇和郡土居・岡本・深田・金山・刈田の時、敵味方より打越して合戦すべき催し故、夜中に人足退けて後、夜明て小屋に火をかけて、煙下にて引き取る時、敵より稠敷付け来る。物かげにて人数ふせ、敵を討つべき談合にて、大将四人のその内より、十市備後守はつり手を引く。敵きうに付来ると、備後是非なく引返し、付来る敵を追散らす。ふせ勢の所まで引付ぬやと人々申ししなり。

        一.北村善四郎、歳十四にて首を取る。その時の有様、付来る敵を追返しの時、細谷川にはせよりて、善四郎水を飲む。その川岸の柳のかげ引きのけて行く敵三人、善四郎を見て敵かと問ふ。いや味方なりと申す。水をのむかほを見られぬ様にとて、水をひまなくさぐりかけ、さらぬ躰にて居る所、その前を三人通る。あとなる敵を切りふすれば、先の二人は迯げたる故、首を取りたり。水をかをにかけ、見られぬ才覚の程、人々感じける。

        一.宇和の瀬なみを引く時に、敵より付られて、既に崩になるべき様子故、平地伏して先立つ敵を追ひかゑし、動勢の立ちとどまるその間に、味方の人数立つべしと、大将の下知により、平地に十人引伏し、先立つ敵にをきむかへば、敵の動勢も立止る。そのひまに味方の勢、敵間遠く引取りて、そこにて人数を立堅める。惣別して土佐の衆の引伏とて、四国にその名伝はるなり。

        一.宇和郡深田の城を取巻きて攻むる時に、目のあたりの敵城より切々夜討する程に、深田の城を大廻り、二里余りさく(柵)を付け、その外に堀をほり、柵を内に陣取りて、廿日余りぞ責たり。又せいろう(井楼)を二所にくみ上げ、土俵を以てここかしこに仕よりにつけ攻めける程に、塀一重になりて降参をこひけるあひだ、城も所領も前躰にたまわる事。

        一.深田攻の時、城中より申しけるは、何れにてもこい矢(乞矢;鏑矢)を御うけ候へと申す時、年十七の若侍、某請んと出る折節、この時、かの侍来て相遊具足をもぬぎすて、すはだか(素裸)にて出る。傍輩・親類みな、高名にもならぬ事無用といへども、一旦言出したる事なれば、流石ひかれもせで出にけり。案の事く(如く)鉄砲を放ちけれども、運やよかりけん当らず。この後、城降参の衆にとひければ、乞矢の侍討殺すは討つ者のひけ(引け)なれば、功者ども言ひとめて、その者をうたせずとなり。

            伝に曰く、乞矢望みたるは立石助兵衛なり。自身の事故名を顕はさず。

        一.宇和の内、御庄越前守と云ふ人、城五ツ持つ。本城・里城・緑城・猿越・新城是なり。猿越の城は土佐の宿茂より道三里。宿茂城主をば長宗我部右衛門太輔と云ふ。又吉奈と云ふ所より猿越の城へは道五里。吉奈城主は十市備後守と云ふ。この備後、才覚にて猿越の城を忍び取る。右衛門太輔程近く居て、備後にこされ口をしく思ひ、組の人数を待揃へ、みどりの城を三日後、計事し、乗取る事。

        一.この近所に新城と云ふ城あり。これは右両城のやうすを見て明退く事。

        一.御庄越前居城へ、右三ツの城々の人数一所に籠る事。

        一.宿茂・十市取りたる両城にありて、助来る大将の桑名彌次兵衛・光富権之助、その外、城持衆・物頭衆へ右衛門太夫申されけるは、この勢を以て御庄越前守が居城に付城して、我等に渡され候へ、と申さるるに付て、何れも尤と同意して、敵の城より十五町、間を隔て、付城を拵ふ。その日数十九日、侍分は三方より敵城を取まき、日々鉄炮・矢軍あり。下々には付城のほりをほらせ、塀柵を付けさせ、夜昼の境もなく、越前守居城へこもる。敵は大勢と聞へければ、人数を二手にわけ、半分は付城拵へ、一方は昼夜ののわけもなく合戦す。ある時佐賀組の侍分七十人、敵城の大門口へ深入して、手負八人あり。この故に引取る事なり難き所、加勢の者二百人、この物頭・若侍、人数の立様、才判よきにより、敵は付け来らずと、功者衆取々に誉る事。又味方の陣所の火事の時、敵城中より掛り来りて合戦の時、敵城へ一方より矢入して、加勢になりし時もあり。又谷頭の峠にて、両方ともに鑓作り相引に引く時もあり。夜討に噪ぐ時もあり。付城の調ふ迄、夜昼の境もなく、鉄炮合戦隙もなし。付城の普請出来仕り、右衛門太夫、二月より明年の正月半迄、越前守も退屈して人質を出し降参す。

        一.宇和郡の城持衆、数ケ所の合戦に利ありといへども、土佐より毎年陣立して毛作をなぎて働く故、敵の下々、何れも草臥たる城持衆、次第に土佐へ降参あるに付て、残る敵の城も、をのづから在々手せばく、下人等も心々になり、己が家を自ら焼亡し、散々に退く故、西園寺居城黒瀬の城を初めとし、白木・土居・金山・岡本・高森・板嶋・岩井ノ森、この城主土佐へ人質を出し、元親公へ降参、知行相違無く相済む事。

        一.豫州の内にても、徳居・来嶋この両人は、居城何れも嶋なるにより、土佐より取掛る事もなし。その故に人質も出さず、年月をくる事。

 

 

 

           天正10年から11年にかけて阿波、讃岐攻略がほぼ完了すると、元親は余裕を持って南予の掃討戦を開始する。すでに東予は早々と大西上野介の智謀で戦うことなく麾下に入り、東予も河野氏、宇都宮氏ともに衰微、滅亡した後で、残る敵は西園寺氏配下の南予だけとなっていた。しかし、阿波と讃岐が併呑されてしまってはもはや命運は風前の灯火で、一万を超す大軍を投入されて次々と倒されていったのであった。

           「南海治乱記」では、「元親記」や「長元物語」を参考に3節に亘ってこの頃の合戦を記述している。ほとんどは局地戦や武将個人の武勇伝的なもので年表に列記するほどでもないので、天正12年の項に「元親久武親直いて伊予平定」として纏めておいたが、それでも結構ゴタゴタしているので、同じ内容は色分けして記載した。以下、簡単にその内容を記す。

         @ 三間の諸城は相替わらず頑強に抵抗していたが、元親の「前の内蔵之助(親信)が吊(とむら)ひ矢を射させよ。」の厳命を受け、弟の久武親直を総大将に圧倒的な兵力を投入。高森城は日暮れになっても若侍衆が中々引かないほどの“押せ押せ”ムードで一気に降参に追込んでいる。「瀬なみ」とあるのは深田と岡本城の中間あたり、ここでは伊予勢が追撃し味方が総崩れになろうとした時、殿(しんがり)が反転、反撃して時間を稼ぎ、その間に他の部隊は少し引いたところで伏兵し、殿が逃げると見せかけて敵を誘い込んで殲滅するという戦法で「土佐衆の引伏」として知られているとの事だが、これは島津の方が有名で「釣り野伏せ(⇒」というお家芸である。この戦法で後年、「戸次川の戦い」で四国連合軍は壊滅させられた訳で、この時、軍議に当たって、いの一番に長宗我部元親が仙石秀久に島津の罠であることを諫言したのも、そうした戦術が身についていたからであろう。何度も土佐軍を撃退した三間勢の結束も繰り返される波状攻撃で次第に疲弊し「此の美間郷は板島の西園寺の旗下也。今度我等共十死一生の気遣に及ぶといへども、已に加勢も之無く、後巻の手立もなく、一切不通申すなり。この遺恨に依て何れも野心を捽(抱)き候。」(元親記)と、西園寺氏に対する“恨み節”を述べてそれぞれ人質を出し降伏したのであった。

         A 黒瀬城は宇和町卯之町背後に位置する山城で、西園寺氏最後の当主、公広の居城である。その支城である松葉城攻略の時、(皆既)日食が起こったとするのは興味深い記事で、日本における1580年代の日食記録はないようなので今後の研究課題にもなろう。その日食の闇で敵陣深く迷い込んでしまい追撃をうける羽目になる。この時も“引伏”戦法で窮地を脱するが、伊予の西の川なる侍が背後から母衣を切りつけられた後に反撃して敵の首を取った際、切りつけられたので恐くなって早く反撃してしまい“引伏”がうまくいかなかったのを恥じた話で、「敵の首を取って臆病もないだろう・・。」と、西の川氏の豪傑ぶりに土佐兵も舌を巻いたのである。西の川氏とは不明だが、西園寺氏配下の城に「西ノ川」(⇒)とあるので、おそらく三間近辺の小領主であろう。

         B 御荘氏は本来、青蓮院門跡の坊官(谷氏)が南北朝末期ごろ同門跡領の御荘(観自在寺荘)に土着して武士化(国人化)したものであるとされるが(⇒)、天文年間に土佐一條氏より勧修寺氏がその名跡を継いだという。その後は西園寺氏に組して十五将に数えられ常磐城(城辺町)に拠った。元親に最後まで抵抗したが、主家の西園寺氏が衰微した状況では全くの四面楚歌で劣勢如何ともし難く、おまけに支城の猿越城、緑城ともに攻略されて本城に籠城するも、近くに付城を築いて取り囲んだ土佐勢の昼夜を分かたない攻撃に辟易して天正12年に入って人質を出し降伏したのである。

          

           他にも「長元物語」では、例の立石助兵衛をはじめ名もなき土佐兵の武勇伝が書き連ねられているが、取り立てて説明するまでもないだろう。唯、この物語は続く秀吉の四国征伐を簡単に述べてあっさりと終わってしまうので、作者の伝えたかった事がこの項目に凝集しているようで感慨深いものがある。自らが命を張って活躍した戦場だけに格別の愛着が小生には感じられるのである。まあ、「南海治乱記」ではさすがに無用の話としてほとんどスルーされているが・・

           さて、このように壮絶な努力を以て制圧した南予ではあるが、本当に元親は四国を制覇できたのかという微妙な問題がここには残されている。土居清良の籠もる大森城も落城したようだが清良が降伏したという記載はどこにもない。おそらくパルチザンのようにゲリラ戦を展開して最後まで抵抗していたのかもしれないし、讃岐の虎丸城も陥落しなかったという説が地元では根強く残り、元親の”全四国征服達成”という見出しには”?”マークが2,3個は付くのである。これから1年もしないうちに秀吉に降参し土佐へ全軍が撤退してしまうのであるから、まだ掃討戦は完遂できていなかったとみるのが妥当ではないだろうか?おそらく元親のことであるから支配が2,3年も続けば北之川親安のように、あらぬ濡衣を着せられて次々と粛正されるのは紛れもなくその点はラッキーだったと言うべきかもしれない。しかし、結局は続く戸田勝隆の圧政に苦しんで一揆を起こし謀殺された小領主も多かったのであるから、支配者が目まぐるしく変わり、人も土地も荒廃に瀕した南予の苦難の歴史はまだまだ終わらないのである。

 

 

Yahoo地図を使用。土佐軍進軍路はあくまでも推定。拡大は画像をクリック!)

 

 

 

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