[所在地]愛媛県西条市
[登山日]1998.7.11
[参加数]2人
[概要]西の川から、常住、鳥越、釜床谷を経て氷見二千石原に至る、正攻コ−ス。昔から使われていた道だけあって、豊かな自然林と静寂の中に溶け込むことのできる、素晴らしい登山路である。常住には、古いお堂があって、一休みには絶好の場所である。ここは、小さな尾根の突端で、向こうはシロジ谷に深く落ち込んでいる。シラサ峠への分岐でもあるが、通行止めの標識がある。鳥越は、戦前は西の川、工藤米八氏の経営する茶店があって駄菓子やわらじなどを鬻いでいたが、今はわずかに石垣のみが残っている。「鳥越岩」とよばれる名物があって、子持権現への分岐でもあるが、その方面は、やはり通行止めの標識がある。あとは、釜床谷の急登が続き、うんざりする頃、瓶壺の一角に飛び出す。
[コ−スタイム]
西の川(7:30)―名古瀬谷登山口(8:15)―常住(9:15)―鳥越(10:10)
―瓶壺(11:50)―男山(12:40)―女山(13:00)・・・昼食・・・―
―発(14:00)―東の川(16:30)
[登山手記]雨男が2人だけの参加で、天気には完全に見放され、また新たな伝説を作ってしまいました。西の川から名古瀬谷登山口までは延々と林道歩きが続きます。谷の一部はいまだに大森鉱山跡からの赤茶けた鉱石が押し出していて、とても異様です。谷の右岸に渡って林道を2回ほど回り込むと左に「瓶ヶ森へ」の小さな標識を見ます。いきなり斜面の急登ですが、長くは続かず、次第に一部、伐採地を交えた急斜面の横掛けに移ります。このあたりは「十郎アレ」と呼ばれる場所で豊かな水場もあり、これからの登りにそなえてゆっくりと休憩です。「十郎アレ」とはどういう謂われがあるのでしょうか。アレとは、祖谷の「代官アレ」や別子山村の「鰯アレ」のように遭難や怪奇伝説にちなんだクセ地が多く、少し不気味です。ここから常住までは、葛折れの斜面の登りです。苦しい登りですが、豊かな自然林と吹き抜けてゆく涼しい風に慰められながら、やっと常住に到着です。常住にはお堂があって、ちょっとした広場でもあり休憩地点ですが、ここからの水平道をもう少し我慢して進むと、シロジ谷に流れ込む水の豊かな沢場があるので、健脚の方は沢まで一気に来た方が良いかもしれません。冷たい水で顔を洗えば気分一新です。天気が良ければ、谷を隔てて覆い被さるように聳え立つ子持権現の岩峰が望める筈なのに視界はまったくなくとても残念でした。 ここから瓶壺までは水場と呼べるところはなさそうなので、たっぷり補給しておきましょう。さて、ガレ場のような沢筋を登ってゆくと次第にガスが周囲にたれ込め憂鬱な気分になってきましたが、ワンピッチで石垣の残る鳥越に到着です。ここには、昔、北川氏や片岡氏をはじめ多くの山男たちに愛された西の川、工藤商店の主人であった工藤米八氏の経営する「工藤小屋」があって山の中継基地になっていたそうですが、いまは忍ぶよすがとてありません。ただ、脇の「鳥越岩」が悠久の時を見守っているのみです。子持権現への直登ル−トの分岐でもありますが、その方面には通行止めの標識がありました。しかし、古いガイドブックには石鎚山系における最も面白いル−トとして紹介され、いつかは登ってみたいル−トの一つです。そして、ここを過ぎると、あの悪名高い釜床谷の急登が待ちかまえています。標高差450m、上にゆくほど急になってくるジグザグの単調な登りは、確かにいやなものですが、一気に氷見二千石原に飛び出す爽快感と満足感は、この急登あってこその醍醐味であると思います。瓶ヶ森林道からのハイキングコ−スでは決して味わうことのできない、この山の宝はまさにこの急登にあるのです!などと偉そうに言ってはみますが、このシンドさは少しどうにかならないものでしょうか。それはなるわけないですよね。歯をくいしばって一歩一歩登ってゆくだけです。 道は上部では、小さな沢に沿うようなガレ場を交えており、道がやや不明瞭な箇所もありますので、迷い込むような場所はなさそうですが少し注意が必要です。途中、風穴のような洞窟がありますが、謂われなどは不明です。薄暗く気味が悪いので、足早に通り過ぎました。
苦しい、もう限界だ、やっぱりこんな天気の悪い日に来るんじゃなかった・・・と自暴自棄になりかけた頃、ようやく道が水平となり、しっかりした山道に変わると一気に瓶壺に到着。11時50分でした。まず、水をガブ飲みしてへたり込んでしまいましたが、同時に恐ろしい寒さが襲ってきました。とても夏とは思えません。山上は雨風が強く、視界は20m程度で最悪の状態です。とにかく頂上を極めようと氷見二千石原を横切ってゆきます。このあたりは、遊歩道が錯綜していますので、初めての方は視界がないと迷う恐れがあります。くれぐれも慎重を期してください。さすがにこの天候では誰にも会うことはありませんでした。ご愛嬌の鎖場をよじり、石土山石中寺の道場(すでに無人でした)を過ぎると男山頂上です。お参りしてから尾根を伝って最高点である女山着。13時でした。お互いの完登を祝したあと、寒いので記念写真もそこそこに直ちに下山に移りました。瓶ヶ森ヒュッテでラ−メンでも・・・と立ち寄って見るとなんと無人。なにか荒れ果てている感じがします。仕方がないので、建物の陰で簡単な行動食を摂りましたが、オジサン、オバサンどうしたんだろう?と思うと食欲も今ひとつ湧きませんでした。オバサンが毎日、きれいに掃除して気持ちのよかった便所も汚れきっていて、とてもショックでした。なにかすっきりしない気持ちのまま、東の川に下山。途中、この日、初めての登山者と行き違いましたが、ヒュッテの様子を語ると、とても困惑されていました。ヒュッテがあの状態では、幾島新道も整備されていない可能性があるので、無難に旧道を選びましたが、道に並行して走っているヒュッテの電話線も諸処に寸断されていて、とても気がかりでした。旧道は単調な植林地帯の下りに終始して、面白さに今ひとつ欠きますが、単調なだけに道はしっかりしています。沢に降り立って、心許ない木橋を渡ると東の川集落はすぐそこです。従来の道は崩壊していて、廃屋の目立つ集落内の石畳を伝ってゆきますが、苔ですべって最後の最後になって転倒してしまいました。打ったお尻をさすりながらやっとのことで舗装道にでて、西の川まで、のんびりと歩いてゆきました。たっぷり一日、充実したコ−スで、棒のようになった足を引きずりながら、無事、成功を喜びあいました。
追記:瓶ヶ森ヒュッテの幾島照夫氏が10月29日ご逝去されたことを知りました。ここに、謹んでご冥福をお祈り申し上げますとともに、自分の父を亡くしたときのような何ともいえない寂しさを感じます。”お山”の大きな理解者を失って、瓶ヶ森も石鎚山もとても悲しんでいると思います。お疲れさまでした。そして、本当にありがとうございました。(1998.11.4記)