丸石〜石立山縦走

[所在地]徳島県東祖谷山村、木頭村、高知県物部村

[登山日]1999.11.4〜6

[参加数]3人

[概要]剣山〜三嶺縦走路途上の石立分岐より南に派生する阿土国境の尾根を縦走するコ−ス。「中国・四国の山」(山と渓谷社刊)には「気力、体力とも充分に備わった者しか足を踏み入れることのできない県下でも有数の困難な縦走路である。」と記され”四つ星”指定である。ただし、これは登りはじめの剣峡から剣山を越えて行く前座がきつい。今回のように奥祖谷かずら橋から登れば、石立分岐までを大幅に短縮できる。古くは大正14年に北川淳一郎先生が縦走を試みているが中東山を過ぎた1400mのコルで挫折し(四国山岳夜話)、逆に高知大学教授、山中二男先生は北川先生の挫折したコルから石立山に登ったことが夢のように語られている(山と林への招待、高知新聞社)。以前は別府からコルを経て木頭村側に至るエスケ−プル−トがあったからだ。それも今はない。逃げ場も水場もない尾根道の後半はスズタケに泣かされる。疲れ切って辿り着いた石立山の岩壁は毅然と夕映えの中にそそり立ち、忘れがたい感動と歓びでふたたび目頭が熱くなってくる。

[コ−スタイム]

11/4 奥祖谷かずら橋(11:45)― 高の瀬山頂(15:00)・・テント泊

11/5 高の瀬(7:00)―中東山(10:30)―石立山岩壁(16:00)・・テント泊

11/6 発(7:30)―石立山(8:15)―別府(12:00)

[登山手記]多くのガイドブックで、「石立山」は”取り”を勤めることが多い。四国で最もキツい山の一つであるからでしょう。全山、石灰岩に覆われたその山に向かって剣山から縦走してゆくことは四国岳人誰しもの憧れですが、最低テント2泊を必要とする長丁場だけにやや敬遠されがちです。年を経るに従ってシンドいコ−スは、ますますパスしがちになりますので、今年は思い切って年休を取り、念願のル−トを踏破してきました。「中国・四国の山」のコ−スは徳島岳人の立場から書かれ、愛媛からはややアプロ−チしにくいので、少し修正して計画しました。すなわち車で「阿波池田駅」まで行き、駅付近の町営駐車場に車デポ。9:00発「名頃」行きバスに乗り込みます。終点「名頃」から歩いても良かったのですが、体力温存第一として、途中の「久保」で下車。前田商店の「三嶺タクシ−」(事前に要予約)で奥祖谷かずら橋までぶっ飛ばして行きました。(「三嶺タクシ−」とは名前もいいですよね〜!以前から一度乗ってみたいと思っていました)さすがに平日のかずら橋は閑散としています。猿が二匹、檻の中で戯れていました。三ヶ月前に渡った橋をふたたび戻るようにして紅葉に染まった山にはいって行きます。三人の足音以外、音を発する物もなく、心の底から歓びが湧き上がってきます。汗がにじむ頃、丸石分岐に到着。小休止して三嶺への快適な縦走路を進んで行きます。高の瀬は稜線沿いのル−トを取りましたが道もしっかりしていて快適です。30分弱で高の瀬頂上に達することができます。こちらがぜったいお奨めです。ガイドブックには「高の瀬に登る場合は、ザックを置いてピストンする。」と記されていますが、伊勢の岩窟で水の補給が要る場合は、分岐にザックをおいて岩窟にピストンする、と言った方が良いでしょう。南面トラバ−ス道は崩壊著しく、笹で足が滑りやすいため重いザックの登山者には不適だと思います。さて、15:00に高の瀬着。ちょっと時間的には早いですが、明日に備えて、ここで今日の行動を終了しました。夜、外に出ると満天の星空。さらに、木の間を通して祖谷の灯火が深く沈んでいるのが見え、限りない郷愁に胸が熱くなりました。

 11月5日。朝霧に映える金色の朝日は、今日の天気を約束してくれます。びっしりと霧氷の付いたテントを凍えながら畳んで、いざ出発です。南には石立山が朝日を背に黒々と沈黙しているのが見えます。ワンピッチで石立分岐着。一本の灌木に赤テ−プが何条にも巻かれています。8:00、大きく深呼吸を一つしてから、南斜面を駆け下りて行きます。所々、赤テ−プはあるものの一部、道が不明瞭です。うっかりすると、そのまま斜面を下りすぎてしまいます。稜線を確認しながら方向を修正してください。ガスで視界がない場合は特に注意が必要です。しばらくすると尾根が狭まって、後は迷うことはなくなります。1672m峰へのゆったりとした登りは一面の笹原で、展望も良好、剣山と次郎笈が仲良く並んで手を振っています。振り返れば、三嶺に続く長大な尾根も全て見渡せ、西には石鎚山系の山々(多分、手箱、筒上山でしょう)も確認できました。笹原に白骨樹が点在する風景は、どこかで見たような懐かしさを感じます。笹原を過ぎると中東山までは、しっとりとした樹林帯の登りですが、木々はすでに落葉して明るい道です。南側は結構、急に切れ落ちていますので足下には少しご注意を。中東山上は背の高いスズタケが繁茂していて、やや登山道がわかりにくいですが、適当にスズタケをかき分けながら最も高いところを目指して進むと、そこが山頂でした。しっかり踏み固められ三角点も確認できました。徳島岳人が好んで用いる杭状の登頂記念標が何本も打ち込まれ、以外と先人の多いのに脱帽です。そして南を見ると、石立山に続く稜線が”くの字”に曲がりながらえんえんと見渡され、あそこをずっと行くのか、と思わず気合いが入ってきます。少し早いですが、行動食の昼食を摂りながら、スズタケとの戦いに備えてゆっくりと休憩しました。

 中東山から1400mコルまでは標高差300mを一気に下って行きます。道は明瞭ですが、急な下りの連続で足がガクガクになります。途中、中東山の東斜面を支配する大崩壊が黒々と見え不気味な感じがします。傾斜が緩くなってくると、遂にスズタケの中に突入です。踏み跡はしっかりしていますが、2m近いスズタケが縦横に交錯して、かき分けかき分け平泳ぎのようにして一歩一歩進んでゆきます。たわんだスズタケに押し返されて、後ろに倒れそうになることもしばしばで、ザックの重さとも相まって、知らず知らずの内に体力が消耗されていくのがわかります。美しいブナなどの大木が散在して、空も真っ青で本当にいい登山日和なのですが、それどころではありません。イノシシの如く、がむしゃらにヤブコギしてゆくだけで周囲の景色など、どうだったか記憶に残っていません。写真を撮ろうとしてもスズタケしか写らないので、全然撮らなかったようで、いい写真も無く後でガッカリしてしまいました。また、スズタケにはダニが多く、手を見ると小さなダニのうごめきが無数に見えて気持ち悪く、眼も充血し開けられないほど痛くなってきて不快そのものです。H女史はずっと先頭を行かされたので次第に機嫌が悪くなり、W氏もヘバり気味で歩調が鈍ってきました。「どこまで行ってもヤブじゃないか!」「でも徳島の岳人が一番大切にしているコ−スだそうですよ。」「このコ−スのどこを大切にしているんだ!」「もう少し整備したらどうだ!」ともう、徳島岳人を悪者呼ばわりです。はっきり言って単なる八つ当たりですが、疲れ切った中年3人組のたわごとと思って聞き流してくださいネ。「じゃ、営林署に頼んで、コンクリ−ト道にでもしてもらったら?」と”正義の味方”の私は言いたかったのですが、それを言うと、つかみ合いのケンカになって、ますます体力を消耗してしまいかねないのでグッと我慢しました。ヨレヨレになって1462m峰頂上付近に到着。誰言わずとも、重いザックを下ろして休憩。カメラを取り出してH女史に向けると「こんな顔、撮らんでええ!」とすごい剣幕。「こ、こわ〜。」・・・あとはしばらく沈黙の中で、思い思いの”もの想い”に耽りました。

 1604m峰までは、標高差150mの登り。樹林の間から、やっと石立山が間近に望めました。凄まじい断崖を擁する、その剥落の姿は「四国一の険山」の面目躍如たるものがあります。しかし、登山道の東側は、崩壊が間近に迫っていて、稜線を巻き込むのは、もう時間の問題のようです。スズタケで足下が見えにくい場所もあるので、踏み外さないように注意が必要です。落ちれば急斜面を何十メ−トルも滑落して無事ではすまないでしょう。1604m峰最後の急登は、とにかくキツい。一直線の斜面直登で相当こたえますが、ゆっくりと耐えてゆくしかありません。「中国・四国の山」には、「1604mの登りにかかる頃から笹も少なくなり・・」とありますが、1604m峰山上は、うんざりするほどのスズタケブッシュがまだまだ続いています。しかし、さすがにこの辺りはブナなどの古木が散在して幽玄な趣きがあり、また目前には石立山西峰の石灰岩の岩壁が西日に薄紫に染まって迫り、縦走もそろそろ終わりに近づいたことへの安堵感とも相まって、えも言えぬ幸福感が降り注いできます。スズタケブッシュでバラバラになっていた3人の心も再び一つになり、しばらく無言でその岩壁を眺めていました。

少し下って最後の西峰への登り。その直前のコルに16:00到着。登り切ってしまうかどうか相談しましたが、あの岩壁をよじ登らなければならない可能性もあり、明日の朝、ゆっくり登った方が安全であるとの結論に達し、コルでテントを張ることにしました。(本当は3人の疲労著しく、ほとんどギブアップ状態!と言う方が正直なところです。)写真は、その暮れゆく石立山からの夕日です。ガイドブックにも「夕日は美しい。」と賞賛される最高の夕日です。そして、時折聞こえる、郷愁を誘う透き通る鹿の鳴き声と、周囲を支配する限りない静寂。山からの最高の贈り物に、疲れた体もおのずと軽くなり、ただ涙が出て仕方がありませんでした。夜、テントから外に出ると、高知市の夜景が美しく望まれ、灯台の遠い灯びが、過ぎゆく秋を惜しむかのように静かに瞬き続けているのが印象的でした。

 11月6日、最終日。疲れてはいますが、完登を目前にして頑張って出発です。「この西峰への登りは非常に急であり、かなりこたえるが、滑らないように注意して登る。」とあり、どんな道なのか、ちょっと緊張します。それは、登り初めてすぐに理解できました。最初の写真に写っているゴツゴツした岩場を斜めに横切りながらよじ登ってゆくのです。まさか、あれをよじ登るんじゃないだろうね?と昨日、ささやきあった、その”まさか”なのです。登山道の巾は、わずか20cm足らず。一方は絶壁、落ちれば命に関わります。足下には、砕けた石灰岩の小さな破片がバラス状に散乱して、滑りやすいため、細心の注意で登って行きます。しかし、振り返れば、中東山を経て石立分岐、次郎笈から天狗塚まで、遮るものもない大展望で、あそこから、ずっと歩いて来たんだな〜、と感無量です。道は登るにつれて、ますます急となり、岩角や木の根っこにすがりながら、重い体を引き上げて行きますが、長くは続きません。岩場を過ぎ、傾斜が緩くなるとフッと西峰山頂に到着。そこが、すなわち別府への分岐でもあり、立派な登山道が東側に下っています。空荷で石立山頂にピストンをかけます。いったん下って、朝露輝くスズタケに覆われた稜線を緩やかに登って、歓びに包まれて8時過ぎ、遂に石立山頂に辿り着きました。

ゆったりとした笹原で、北側にはダケカンバの純木が立ち並び、南は眺望に優れています。遠く太平洋が金色に輝いているのが見え、東には紀伊水道を隔てて「大峰」とおぼしき山々も雲居にかかっています。西には高知市から足摺に向かう海岸線が湾曲しながら朝靄の中に消えて実に感動的な眺めです。朝のすがすがしい空の下、山頂を3人で独占しながら休憩、山頂に祀られている石立神社と石立大明神の祠に、ゆっくりとお参りして縦走の成功を喜び合いました。そして、お互いしっかりと握手を交わしてから、名残惜しく何度も何度も振り返りながら頂上をあとにしました。途中、「舎心」と呼ばれる名物の断崖を一瞥してから足早に、西峰に還り、一気に下山にかかります。

 ジグザグの緩やかな下りから、次第に尾根に沿った急な一直線の下りに移って行きます。恐竜の背びれのような岩場で、この3日間で初めての登山者と行き交いました。このあたりから、恐ろしい水不足が襲ってきました。男性軍2人は、まったくの渇水状態です。下まで我慢しようとは思うのですが、喉が乾いて疲労が増強してきます。ふと見るとH女史が小さなペットボトルを持っているので、二人で少し所望したところ、「イヤだよ。自分たちがガブガブ飲んでしまったのがいけないんじゃない!。私にも大事な水なんだからね!我慢しなさい。」と自分だけグビッと飲んでザックの中にしまいこんでしまいました。「・・・・・。」・・「あれじゃ、二人が脱水で死にそうになってもぜったい水は分けてくれないだろうな。」とお互い慰め合う日々が今日まで続いております。ヤレヤレと思いながら、「竜頭谷」の水を期待しつつ(渇水時には枯れていることが多い)焼け付く喉で下りに下ってゆきます。下るほどに傾斜はますます急になり、石灰岩むき出しの岩場に足がガクガクになり、もう限界に達する頃、やっと竜頭谷に降り立ちました。豊かな水の流れ。その一杯のおいしかったこと。生き返るということは、まさにこのことです。ここで、ゆっくりと昼食をとり、最後の遊歩道を通って12時、無事、別府峡に降り立ちました。紅葉狩りの人々の奇異な視線の中を誇らしく、さらに2kmほど歩いて、快適な「別府峡温泉」で入浴。生き返った気持ちでタクシ−とバスを乗り継いで土佐山田駅に急ぎ、17時57分発鈍行列車で、のんびりと阿波池田駅まで還ってきました。もう二度と辿ることもないかもしれない石立縦走路。しかし、その道がいつまでも自分の心の中に残ることを嬉しく思いながら、すでに遠くなった石立山にふたたび思いを馳せてみました。